[ 特別記事 ]

まえがき本棚01|池上英子『ハイパーワールド―共感しあう自閉症アバターたち』

高機能自閉症の大人、ジョンとの出会い

NHK・Eテレ|ハートネットTVで、本書『ハイパーワールド―共感しあう自閉症アバターたち』より生まれたドキュメンタリーが放映されます。自閉症者にはないとされてきた「他者への共感性」が、ヴァーチャルコミュニケーションの世界では豊かに存在していることを発見した著者が、自閉症アバターに出会う旅を通じて脳神経の多様性を認め合う社会について考えます。

第一回『自閉症アバターの世界|仮想空間の住人達
(2017/9/26(火) 20:00~ 再放送 10/3 13:05~)

第二回『自閉症アバターの世界|仮想と現実を生きる
(2017/9/27(水) 20:00~ 再放送 10/4 13:05~)

NHK 「あさイチ」 でも、 9/27 9:05~ より紹介(予定)


KEYWORD  ニューロ・ダイバーシティ 発達障害 脳科学 自閉症スペクトラム アスペルガー セカンドライフ

 

プロローグ

高機能自閉症の大人、ジョンとの出会い

 

 もうかれこれ一〇年近く前のことになる。

 私たち夫婦がたまたま京都に数か月滞在していたときのこと。シリコンバレーで起業しているアメリカ人の友人から、「大学生の息子ジョンが、初めて日本旅行をするんだけど、途中、たまたま京都にも寄るから、ぜひ会ってほしい」というメールが届いた。

 普段、私はニューヨークの大学で社会学を教え、オランダ生まれのつれ合いも、プリンストンで宇宙物理学を研究している。二人とも仕事は大学関係で、学生に会うのは慣れている。まして友人の子息は、日本に来るのは初めてで一人旅。二人とも忙しいとはいえ、断る筋合いはない。

 「もちろんいいよ」と返信すると、「ありがとう」の後に一言、「ところで私の息子はアスペルガー症と診断されているんだ」とのメールが返ってきた。

 アスペルガー症候群が、高機能の自閉症の一つの形と言われていることは私も知っていた。シリコンバレーのコンピュータ産業関係者には、まさに石を投げれば当たるほどいると言われているアスペルガー。モーツァルトやアインシュタインもひょっとしたらアスペルガーだったと言われていることくらいなら聞いたこともある。しかし私たちの知識はその程度のものだった。

 一抹の不安を抱きながら、京都の町中の店をランチの場所に指定した。気取らない店だけれど、古い町家をほとんどそのままに改装した雰囲気が、初めての日本訪問には面白いかもしれないと思いながら。

 そしてジョンが京都に現れた。

 不安は杞憂だった。世間話や期待していた町家の雰囲気の話には興味がないのかのってこないし、食事の感想は言わないけれど、食は進んでいる。話が弾むということはないけれど、礼儀正しく真面目な印象だ。私たちは心の隅で小さく安堵した。

 ジョンは、観光客が話題にするようなことには興味がないようだった。英語で「スモール・トーク」という、ちょっとした世間話に花が咲くということがない。彼の日本一人旅の目的は戦国時代の古戦場巡りだ。京都に来る前は関ヶ原の戦場跡を旅してきて、これからさらに南下していくつかの古戦場を短期間で見て回るつもりだという。古戦場に佇んでツワモノどもの夢の跡、と感慨に浸るつもりはない様子だった。でも、そこでの陣立てや戦力など、戦に関する興味と知識は生半可でない。

 ちなみに、私はもともと社会学のなかでも歴史社会学という分野を専門としていて、『名誉と順応 サムライ精神の歴史社会学』という本も書いている。これはもともとハーバード大学出版会から出版された英語の本だが、森本醇さんの名訳でNTT出版から日本語の翻訳版も出していただいている。というわけで、サムライの歴史は一応私の専門とも言えるが、それでもジョンの古戦場へのこだわりには恐れ入った。数日後にまわる予定の九州の古戦場のことなど、日本人でもきちんと知る人は多くないはずだ。そのジョンが初めて日本に来て、日本人にもあまり知られていない戦場跡を一人で回る旅を効率よく組み立てて実行するなんて、それだけでも大変なことだ。

 もっとも、ジョンの興味はサムライの文化や歴史の全般に向かっていかないので、どうも話がすれ違うことに気がついた。彼は古戦場の事象と事実に沿って思考しているようで、「文化」といったあいまいなことには興味がないので、会話は微妙にすれ違う。こうしてジョンは、さっそうと次の目的地に向かっていった。これが私の高機能自閉症をかかえる成人との初めての自覚的な出会いだった。

 振り返ってみると、私は当時、自閉症について本当に何も知らなかった。自閉症の症状の核心に、他人とのコミュニケーションのとり方に困難があること、そしてジョンのように一つのことにこだわりを持つ人が多いこと、すべての自閉症の人に当てはまるわけではないが、会話が続かないとか視線が合わないといった症状がある人が多いことも、よく知らなかった。いまでは一般的になった「自閉症スペクトラム」という考え方、つまり自閉症の現れ方や症状は実に多様であることも聞いたことがなかった。と言っても、これは当時はまだ専門家のあいだでも十分に定着していない言葉であり、ジョンの場合は思ったより普通の印象で、障害というより一つの個性に出会ったという印象が強かったことを覚えている。

 

アバターとして出会った自閉症の人々

 

 ジョンに出会ってからしばらくして、私はまったく予想もしていなかった偶然から、一方で歴史社会学に片方の足を突っ込んだまま、コンピュータを介し、自分の分身であるアバターを使ってコミュニケーションをとる仮想世界の研究に入り込みはじめた。

 はじめ私の研究チームは、仮想空間のなかで人々が代理の自己を使うという経験とネットワーク作りに焦点をあてていた。そのうち私は、仮想世界にたくさんの障害者の方のグループができていることに気がついた。そして、さまざまな障害を抱える人たちが、仮想世界で互いに支えあい啓発しあうグループをいくつも形成していることに、深く感銘を受けた。

 その仮想世界で思いもかけず、アバターを通じて他者との交流に励む大勢の自閉症の人たちに出会ったのだ。自閉症の人たちは一般に、コミュニケーションをとることに困難をかかえていることが多い。ところが彼らにとってコンピュータを通じた仮想空間はとても馴染みがよいようで、そこではさまざまな自閉症の人たちがアバターとして活動している。すでに自分もアバターになって仮想世界の観察を始めていた私は、自閉症の自助グループを長年続けてきた方々のアバターと仮想空間で出会い、そのグループの毎週のセッションに参加するようになった。自閉症のアバター同士の会話に触れて、私は自閉症の人々の世界の豊かさと複雑さに初めて目を開かされた。

 この経験をきっかけに、私は歴史社会学と仮想(ヴァーチャル)エスノグラフィーの二つの視点から、自閉症を研究するようになった。長年、仮想空間で自助グループの活動を続けている人たちが話している現場に許可を得て参加し、仮想空間で出会って交流するようになった自閉症の人々から、自閉症の世界について多くを学んだ。

 私がデジタル空間でアバターとして出会った自閉症の人々は成人であり、普段の生活ではさまざまな社会的不適応の問題を抱えていたが、アバターを通じて自分の経験や考えを的確に表現できる人がほとんどだった。おもな会話のテーマは、自閉症の人が日常的に困ることやその解決方法などであり、その語り口もとてもフランクだ。多くの場合、日常の何気ない体験について話していると言ってもいいだろう。

 しかしそのなかで、私はよく「そうか、自閉症の人たちはそんなふうに感じているのか」と思うことがあった。そして自閉症の人たちを理解しようとすることは自分自身を知ることにもつながり、人間の脳の不思議へと分け入る入口になると強く感じるようになった。こうして私は、自閉症というカテゴリーの社会史や、脳神経科学などの分野での自閉症研究の歴史にも深くかかわるようになった。

 私はしだいに、神経回路のパターンが違い、モノの見方や感じ方のスタイルが異なると言われている自閉症の人たちの、奥深い世界に魅せられていった。なにより仮想空間の自閉症アバターの語りは、私の常識を揺さぶるような新鮮な驚きに満ちていた。

 私はいわゆる自閉症の専門家でもなく、かといって自閉症当事者でもないし、自閉症児の親でもない。けれども私自身がそうだったように、社会のなかでは自分は自閉症と関わりがないと思っている人が大半なわけで、その意味では、私のような人間が仮想空間で出会った自閉症の方々の語りに何を感じたかを読者にお伝えすることに何らかの意味があるのではないかと思うようになった。本書では、仮想エスノグラフィーの手法を使い、私自身もアバターとなって自閉症の方の自助グループに参加させていただいたりインタビューしたり、仮想空間の街角で出会った自閉症当事者の人たちとの何気ない会話から、いわゆる「定型発達者」であるらしい私なりに感じたことをまとめてみることにしたい。

 一九四〇年代に使われるようになった「自閉症」という用語は、自分のなかにこもり、こだわりの繰り返し行動などにふけっていて言葉の発達や認知能力に遅れがある幼児の発見を端緒とする。しかし現在は、自閉症はその症状の多様性から「自閉症スペクトラム」と呼ばれるようになり、知能も平均かそれ以上で、言葉の発達にも遅れがない高機能自閉症(いわゆるアスペルガーも含む)の人たちの存在も広く知られるようになった。それでも一般的には「自閉」というもとのネーミングのイメージをどこか引きずっているところがある。

 ところが、私が仮想空間で遭遇した自閉症の人々が語る内面世界はそうしたイメージとはむしろ正反対で、嵐のような強烈な脳内体験であり、過剰な情報を過剰なままに取り込んでいるハイパーワールドを生きる人が多かった。しかも自閉症アバターたちは仮想空間のなかで正確な言葉を操りながら、その驚くべき感覚知覚経験、心的体験、さらに「感じ方」「見方」の社会における少数派としての困難な体験を語り合い、共感しあい、支え合っていた。このことも自閉症がコミュニケーション能力や社会性の障害と言われていることを考えると、注目すべきことと言えるだろう。

 私の出会った自閉症アバターの人々の世界を自閉症当事者の代表として一般化するつもりはない。しかし一見自分のなかに閉じこもり、深刻なコミュニケーション上の問題をかかえているようにみえるタイプの自閉症の人々のなかにも、実は豊かな情感と認知力を持っている場合があることも最近は知られるようになってきた。しかし、そうした人々の経験や世界を知ることは楽ではない。その意味でも私が仮想空間で出会った社交する自閉症アバターたちは、 その脳内世界や自閉症的経験の貴重な語り部でもある。

 この本は私が思わぬ偶然からアバターというツールの助けをかりて、私が仮想世界のなかで自閉症の人々のハイパーな世界に出会った記録である。 それは私にとっては一つひとつ不思議の国の扉を開けるような驚きに満ちた経験であり、その度に自分がいかに固定的な視点から世界を見ていたかを思い知らされる経験であった。私がなぜ仮想世界の自閉症アバターたちに出会ったかを手始めに、ハイパーワールドへの旅にしばらくおつきあいいただきたい。

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[ひきつづき、第1章の一部を特別公開しています]

 

第1章 自閉症と出会う──仮想する脳を旅して


 

自閉症は人間の脳の不思議への扉

 

 自閉症の現れ方は実にさまざまだ。幼いころから言語に遅れがでて、儀式的とも思えるこだわり行動なども強く現れ、自分のなかに閉じこもったように見える「古典的自閉症」の症状を示す人もいる。

 そういう人々に比べれば、私がこの仮想世界の研究で出会った自閉症の人たちはコンピュータの使用に問題がないわけで、比較的高機能の方と言えるだろう。だから、私が仮想世界で出会った人々が自閉症のすべてとは言えないことを初めにお断りしておきたい。症状に違いが大きいからこそ「自閉症スペクトラム」と呼ばれるようになったのだ。

 しかし、高機能と言っても大部分はその言葉から感じるイメージとは異なる。一般に知能や言語に問題のない高機能自閉症とかアスペルガーと呼ばれる人でも、人と話すこと自体が大きなストレスになる方はかなり多い。それ以上に、人との交流で疲れ果てる人もいる。あるいはそこまでいかなくてもスモール・トークとか、女性の場合だとガールズ・トークというような、目的のはっきりしないおしゃべりがとても苦手で、社会的に孤立してしまいがちだという人は少なくない。

 一方、感情・情緒が一見あまりないように見えるタイプの自閉症の人もかなりの数いる。論理的なことや理性的な推論など、社会をシステム化して把握することに、より才能を発揮するが、あいまいな情緒や感情の機微を感じることが苦手だと自認するアスペルガーの人も珍しくない。たしかにその通り苦手な人もいるのだが、ここで複雑なのは、実は情緒を感じることと、それをより普通の人にわかるような表情や身体表現でタイミングよく表現することとは、別の問題であることだ。自閉症の人たちの「みかけ」は、時として定型発達者に強い差異の感情を抱かせる。一方、ある自閉症のアバターが言っていたことだが、「僕たちが見かけ上感情がないようにみえても、僕たちが感情を抱いているわけではない、というのをわかってほしい」という場合もあるのだ。

 感情表現だけの問題ではない。たとえば、普通の言葉は話さないのに、見事な詩のような文章を出版して人々を驚かせたインドの自閉症の少年もいる。ティト・ムクホパディ(Tito Mukhopadhyay)はインドで生まれ、三歳のときに自閉症と診断された。この少年は、明らかに話し言葉は操れないが、心の中に溢れる感情があり、しかもその感情や内省を詩的かつ哲学的に、豊かな語彙を使って文章化することができる。ペンやキーボードを使って自分で書くこともできる。しかし少年は、母親の介助がないと日常生活をこなすことができない。

 「ニューヨーク・タイムズ」紙の記者は、ティトが母に連れられて神経科学のラボに検査を受けに来たときのことを、こう描写している。

 「ティトは部屋に入るなり体でリズムを刻み、さらに立ち上がってくるくる回ったり、大きな音を立てたりした。腕をひらひらさせたり、まるで操り人形の調子が悪くなったみたいだった」。

 自閉症児によくある常同動作(同じ言葉や同じ動作を繰り返す)だ。ただし彼が特別なのは、同時にノートに、そうした彼の行動の意味を説明することだ。外側から観察しただけだと、一見、外界に興味を示さずおかしな動作をしたりくるくる回ったりするという、ほぼ古典的な自閉症の症状を示す。

 けれども、内面を記したどの文章でも、あるいはその場でノートに鉛筆書きするコミュニケーションでも、彼は少なくとも定型発達者と同じように論理を的確に操り、かつ深く感じる情緒を詩的な文章で表すこともできる。外見だけ見ていると、少年のなかに溢れる豊かな感情と言葉の世界が存在することを想像することは難しい。

 社会の多数派である定型発達の人は、身体に張り巡らせたさまざまな知覚を同時に働かせながら、さらに相手の表情やジェスチャーを無意識に読み取り、そしてそうした感じ方を一瞬のうちに統合して、他人と会話や交流を行っているのだと思われる。そしてその知覚と認知の統合の瞬間に、無意識であっても、今までの育ちかたのなかで培ってきた文化的なスタイルや社会的価値観というようなものともすり合わせている。普段は無意識にやっているけれど、この同時ということは実はすごいことなのだ。たとえば、知覚のどれかに異常があったり、あまりにも敏感である場合は、情報過多になってその統合がうまくいかなかったりするし、時間がかかってタイミングよく対応できない場合もある。

 実は自閉症の人には、過敏なほど情報を受け止めてしまうケースが多いようなのだ。

 自閉症は深い謎だ。そしてその謎は、人間の脳の不思議にダイレクトにつながっている。彼らは自分とは違うある特殊な障害を持った人たちだ、として、その深い謎を私たちに提示してくれる人たちのことを知ろうとしないでいるのは、あまりにも「もったいない」と私は感じた。

 

 

自閉症の人の知覚の特徴

 

 仮想空間を通じて自閉症の人々の感じ方を少しずつ知るようになると、私たちが無意識のうちになんの疑いもなく受け入れている脳の働きかたや体の感じかた、あまりに当たり前すぎて語られることのない前提などが、いかに当たり前でないかに気づくようになった。まるで、脳や身体と意識の不思議の扉を一つひとつ開いていくような気持ちになるのだ。なかでも聴覚、視覚、触覚等の知覚に関する差異は印象的だった。

 たとえば、普通の感覚を持った人にはなんでもない音でも、自閉症の人にとっては金槌で頭を叩かれるような感じがする場合がある。そう思うと、自閉症の子供が突然異常に思える行動に出るのも、もしかしたらこうした音が過敏に聞こえているからかもしれないのだ。また、自閉症の乳幼児には視覚に異常がある場合があり、相手の顔を見たり視線を合わせたりすることがなかなかできないという報告もなされている。そしてこのことが、言葉の習得や社会性の発達に大きく関与していると考える研究者も多い。

 一方、自閉症の人のなかには見たものを驚くほど正確に記憶できる人がいる。それなのに体調によって、視野が古いテレビのようにザッザッとブレたりする人もいる。まるで鷹が獲物を捕らえるときのように、狭い範囲の物体を正確に捉えられる人もいる。では、そうした視覚的な記憶に優れた人は、顔の表情の意味を捉えるのもうまいかというとそうではなく、ジェスチャーや表情から人の心の機微を感じることが難しい自閉症の人も多い。それどころか、人の顔を覚えることが難しいという自閉症の人が少なくないという報告もある。

 こうした話を聞いたり最近の脳神経科学の研究成果を知ったりすると、視覚が優れているとか耳がいいなどという言葉で、私たちが知覚とは何かということを実に大まかにしか捉えていないことがよくわかる。たとえば視覚や聴覚といっても、おそらく脳の機能はかなり細分化されて働いており、その内容は実に多岐に分かれているのだろう。そして、私たちが「普通」と思っている視覚や聴覚のありかた自体が、実は、見たり聞いたりしていても、必要でない情報はあえて意識上にのぼらせないという大雑把な捉え方ができることによるようなのだ。

 たとえば、賑やかな立食パーティ会場などで自分の名前が噂話に出てきたり視線が自分に向けられていたりすると、ざわざわしていても急にそれに気がつくことがある。普段の巡航運転モードから、一気に気がつきモードに転換する。しかし逆に、すべての音にそれと同じように反応していたら大変だということは容易に想像がつくだろう。その点では、大雑把こそ幸いなれ。

 あまりにも多くの近くの情報をとりこんで、すべてを意識にのぼらせていたら、私たちは時々爆発してしまうだろう。ところが自閉症の人々の知覚の特徴のひとつは、このように過剰な情報を過剰なままに感じてしまうことにあるようなのだ。

 

 

多数派の生活・文化で暮らす──異文化交流との相似

 

 こうした自閉症の人々の感じ方や見方を知り、社会のなかでのさまざまな苦労を知ると、人口では多数派の「定型発達者」のコミュニケーションスタイルに合わせることに、いかに彼らが苦労しストレスを受けているかを感じさせられる。逆に「普通」であることがいかに当たり前でないか、そしてそれを普通と考えて、他者もそれに合わせることを当然として疑わないことが、自閉症の人に時に大変なストレスを与えていると感じることができる。

 それはまるで、大多数の国民が「国語」として一つの言葉を話し、文化と伝統がよく定着している国に移民してきたエスニック・マイノリティに似ている。彼らも、日々適応するために苦労している。

 そして、それは日本のような国にやってきた外国人の問題だけでない。実はそれは、また偶然にも米国で職業生活のほとんどを送ってきた日本人である私の経験とも、どこかで深くつながっているところがあると感じるようになった。

 個人的な話になるが、私はたまたま人よりかなり遅く留学し(つまり脳の神経回路や文化的な蓄積がすっかりメイド・イン・ジャパンとして成熟したまま)、その後米国の大学で社会学者としてキャリアを積んできた。いわば文化的・言語的なマイノリティのまま、米国社会のルールと文化、仕事場である大学のルールと文化に合わせることを余儀なくさせられている。いろいろな方々の教えや協力で、なんとかこなしているけれど、結構ストレスだ。米国は移民国家だから、日本より外国人にはオープンなところもあるけれど、その一方、大学教員のような職業生活においては強い同化圧力もある。

 米国はそもそも全般的に文化的な同質性を前提にはできない移民社会なので、その代わりに法律と契約できちんとゲームのやり方を決めておこうとする傾向がある。違うことを前提にして、職業上やコミュニケーション上のルールはかなりカチッとしているところがあるのだ。それにコミュニケーションでは、やはり米国で育った人、つまり多数派の人間がつくり上げた暗黙の生活・文化上のルールに合わせなければ、相手を効果的に説得することができない。

 キャリアのサバイバル上、適応せざるをえなかったことが多々あったが、なにしろ私は元が言葉も文化も脳のつくりもメイド・イン・ジャパンなので、日米を往還していると文化的船酔い状態を自覚することがある。日本に「帰る」と(かなり自動的に)日本人らしく振る舞い、そして米国に「帰ると、それはそれでストレスだが、なんとかニューヨークのプロフェッショナルとして振る舞おうとする自分がいる。頭の上のほうにメタな自分がいて、そうした自分を観察しているときもある。

 しかし多くの場合、それは自覚的なギアの切り替えではない。いわば場所と人々が私にそう振る舞うことを自然に要求して、私の頭と体がそれに無意識のうちに反応しているのだ。

 ちょうど、駅のプラットフォームにベンチがあると思わず座りたくなり、壁があると寄りかかりたくなるように。この生育条件に由来する文化的・言語的な脳の設定は、普段はなかなか気づくことのない無意識の領域であり、異文化のなかに身を置いて、他者との交流のなかで差異を感じたときに、それを意識化せざるをえない場合が多い。

 それぞれの個人にはその育ってきた環境やさまざまな心理的・文化的背景から、無意識のコミュニケーションスタイルがあり、またそれぞれのグループには、それぞれのグループのコミュニケーション文化がある。それに合わせてギア・チェンジすることは、どのような人にでも目に見えないストレスのはずだ。そうそう、たしかに他者に合わせるのは疲れる、職場の人間関係はストレスだ、と思う人も多いだろう。けれども大体の人は他者と交流することにより、自分が成長してきたことも自覚している。私もそうだ。そう、日本の繊細な文化や感覚は素晴らしい。けれども私には、違う文化のなかで「泳ごう」としてもがいた経験が自分の可能性を、思いもかけない方向と深さで確実に広げたという感覚がある。

 

究極の鏡としての自閉症

 

 だが、自閉症スペクトラムの人々との出会いを通じて、私はしだいに、日本だろうが米国だろうが、他者との交流の難しさはいわゆる異文化間の問題だけではないと感じるようになってきた。他者は自分の鏡だし、人間は所詮、他者とのすり合わせのなかでしか自分を知ることもできない。そして、神経回路の構造自体が違うらしい自閉症の人々は、大部分の「定型発達者」にとっては、究極の鏡としての他者である。

 それは生まれ落ちたエスニシティ的な文化の違いからくる他者と自分の関係と似ているが、その異邦人性はより深いかもしれない。なにしろ、同じ言葉を話し、しかも同じ文化のなかで育ったはずなので、違いがとてもわかりにくい。その違いを自覚的に知ってもらいたくて、一部の自閉症的な人々は、自分たちは神経回路的に定型発達の人たちとは違う「ニューロトライブ(神経部族)」だと表現している。違う神経部族と考えるかどうかは別にしても、このような鏡としての深い他者の存在を知り、その感じかたを学ぶことは、素晴らしい経験だ。これは自閉症の療育とか福祉にかかわっている人だけが問題とすべきことではない。

 言いかたはヘンかもしれないが、読者の方がたとえ自閉症の人と直接なんのかかわりがなくても、一般教養として自閉症とは何かを考えることは、それだけで自分と自分の脳の働きをよりよく知ることにもなるのではないか。自閉症的な脳の働きが一つの個性であり、その現れ方は「スペクトラム」と呼ばれるように、連続体であるという考え方はよく知られるようになってきた。そうだとすれば、脳の一部に自閉症的な傾向がある人の数は、自閉症の診断数よりずっと多いはずで、自閉症について学ぶことは、自分のまわりにいる人々のなかにある自分とは違う感じ方やコミュニケーションの方法をより細やかに感じられることにつながるのではないだろうか。

 一方、大人になった自閉症の人々のなかには、苦労してコミュニケーションのギア・チェンジが比較的うまくできるようになった人々もいる。一見うまく社会に適応しているように見える人でも、それがストレスなしでできているわけではないことに注意したい。彼らは知能や言語能力に問題がなくても、神経回路が多数派の知覚や認識のパターンに合致しないまま、マイノリティとして生きているとも言える。多数派である「定型発達者」に適合した形で発展した文化の形やコミュニケーションのルールに合わせることを強いられている。

 私は、神経回路としてはまあ「定型発達者」という多数派に属するようだが、言語的・文化的にはマイノリティとしてリアルに米国社会で暮らしている。その立ち位置から、私は自閉症の人々が主張する「ニューロダイバーシティ(神経回路の多様性を主張すること)」に、共感を覚えた。ニューロダイバーシティという考え方は、いろいろなスタイルの脳の働きがあり、さまざまな神経回路を持っている人々がいるからこそ、社会全体として創造的な力が生まれるのだ、という考え方である。

 ちなみに心理学などでは、より多数派の構造に脳が発達した大部分の人のことを「定型発達者」、自閉症スペクトラムのような人を「非定型発達者」という言い方をする。私は実はこの用語の語感に少し抵抗がある。「定型」的に発達した神経回路を持つ人々のなかにもさまざまな神経回路のスタイルがあるし、定型発達者と非定型発達者とのあいだに、そうはっきり線を引けるとも思っていない。

 さまざまな神経回路のスタイルを持つ人々がいたほうが、社会全体としてもより豊かな可能性をはらむと思っているので、その観点からも二分法的な語彙に良い印象を持たない。

 しかし本来、「定型発達者」とは実在する普通の人という意味ではなく、社会科学でよく言われるところの「理念型」でフィクショナルな概念である。代替用語も思いつかないので、とりあえず発達の形の多数派という程度の意味で、この本ではこの言葉を時として使うことをお断りしておきたい。

 

 

仮想世界で自分と出会う人々

 セカンドライフという仮想空間

 少々話を急ぎすぎたかもしれない。自閉症の人にとってコンピュータを介した仮想世界は馴染みがよいということは、仮想空間の世界で遊んだ経験がないと感覚的にわかりにくいかもしれない。もちろん、すべての仮想空間が自閉症の人にとって馴染みがよいとはかぎらない。まず、私が自閉症のアバターと出会った経緯も含め、私が関係した仮想世界とはどういうものかについて、もう少し具体的に紹介してみたい。

 私の場合、他の仮想空間もいろいろ試してみたが、やがて「セカンドライフ」という仮想空間がとても気に入るようになった。「レジデント(住民)」と呼ばれるプレイヤーが、好きなように自分の家や街をデザインしている仮想空間だ。このセカンドライフは、サンフランシスコに本社があるリンデンラボが製作したプラットフォームで、コンピュータ画面のなかに擬似3D環境をつくり、自分の代理のアバターを動かして他のメンバーと交流する、というもの。

 仮想世界での私のアバターの名前は「キレミミ・タイガーパウ」。深い意味はない。ちょうどそのころ沖縄の八重山諸島を旅した後で、たまたま石垣島の店で購入した文庫本が動物写真家の横塚眞己人さんのエッセイだった。そのなかに出てくるちょいと気が強くてエレガントな西表ヤマネコ、キレミミの名前を借りた。米国での生活で、私は喧嘩の語彙が未発達のせいか、温順なしくて優しいオリエンタルと思われがちなので、そのメス山猫にあやかろうという気持ちがあったのかもしれない。セカンドライフの操作に長けた人のなかには、アバターの身体を一から自分でデザインする人もいるが、私はそこまでの力も時間もないので、「既製品」のパーツを自分なりにアレンジすることにした。セカンドライフ内にはたくさんの「ショップ」があるが、たまたま日本人が経営していたショップで身体の基本のパーツを「買った」ので、少し小柄なアバターになった。

 ちょっとした技術があれば、アバターの顔や体はもっと自分の好きなようにデザインできる。もっともセカンドライフは米国製のためか、日本製のアバター交流サイトなどのフラットで「かわいい」系のアバターの印象と違い、男女ともにかなりセクシーで若々しい肉体の持ち主が多い。しかし、リアルや想像上の動物、あるいは奇想のロボット風のさまざまなアバターを使う人もいて、お仕着せの仮想空間ができているわけではない。レジデントが空想上のルネッサンス風建物を建て、そこで貴族になったつもりのアバターが貴族風のコスチュームを着て遊んだり、そうかと思えば、宇宙空間をつくって見知らぬプラネット上で太極拳を習ったりする。

 まるで未来世界のようだが、技術という点から考えると、最近開発が進むヴァーチャルリアリティに比べ、二〇〇三年に発足したこの「セカンドライフ」というプラットフォームは、かなりプリミティブだ。3Dといっても、フラットなコンピュータ画面上の話で、アバターが画面から浮き上がってくるわけでもなく、景色やアバターが立体的に作りこまれて見える程度だ。だが、自分たちで建物を建てることも可能でユーザーの自由度が高い。

 ヴァーチャルリアリティとはいえ、アバターを通じて触覚を持つことはできないし、顔の表情もあまり変えることはできないが、多数のアバターが同時にログインして、まるで街角で話し込むような雰囲気でリアルタイムに交流できる。上からのお仕着せのルールで遊ぶゲームではなく、SNSのように、興味に合ったさまざまなグループを自分たちでつくって交流するという点が、社会学者である私の興味を引いた。まるで現実社会のコミュニティの生成を研究するようではないか。

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