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第9回 エラスムスとモンテーニュに見る寛容性の探究

2017年4月26日

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 まだ、20~21歳のころだったと思う。大学闘争は新左翼各派の分派闘争が熾烈になるにつれ、表面的なデモの動員数などより、かかわっていた人たちが精神的に貧しくなるのが分かってしまう情況だった。そのころ、マルクス主義というのは理屈っぽいユダヤ人が書いたキリスト教の新しい経典じゃないのかなどと感じ、根が近ければ近いほど分派闘争が陰惨になるのは、そのためかなとも思っていた。いったい、キリスト教ヨーロッパ社会に寛容という観念はあるのだろうかと不思議に感じて、当時まだ和訳初版が出たばかりのH・カメン著『寛容思想の系譜』(成瀬治訳、1970年、平凡社世界大学選書)などを必死に読みあさった。

 読んでみると、宗教戦争当時のヨーロッパ宗教思想史は寛容どころか、まさに非寛容の系譜だった。その中で一陣の涼風といったおもむきだったのが、激越なローマ教皇庁批判にもかかわらず、プロテスタント陣営には加わらず、カトリック、プロテスタント両派間の融和を説いたエラスムスだった。エラスムスの『痴愚神礼賛』は渡辺一夫訳(1956年、岩波文庫)で読んでいたが、他人の意見を皮肉り、罵倒するテクニックの絶妙さをおもしろがっていただけだったから、「ああ、こんなにきびしい環境の中で、あのあらゆる権威への痛烈な批判をくり広げていたのか」と、あらためて感心したことを覚えている。

待望のラテン語からの直接訳版が出て、渡辺一夫訳版が懐かしいところも

 中世末期ヨーロッパ最大級の皮肉屋、エラスムスが腕によりをかけて当時の権威という権威を風刺した『痴愚神礼賛』に、ラテン語原典からの直接訳版が出た。エラスムス著・沓掛良彦訳『痴愚神礼賛 ラテン語原典訳』(2014年、中公文庫)で、ついにこれで待望久しかった、原典からの信頼できる直接訳が登場したのだ。沓掛自身が認めているところだが、今まで日本語で読めるバージョンとしては最も親しまれていた渡辺一夫訳『エラスムス 痴愚神礼賛』は、フランス語訳からの重訳という制約こそあれ、すばらしい名訳だ。

 訳注についても、渡辺訳のほうが懇切ていねいなところもある。たとえば54節でエラスムスはアブラクサス派という神秘主義集団を引き合いに出して、「イエスその人よりイエスのことばを正確に理解している」と主張するような衒学趣味を茶化しているのだが、沓掛訳の注は「天界を一年の日数に応じて365あるとした」(同書、291頁)とそっけない。アブラクサスという音が、いかにもギリシャ人にありそうな名前に聞こえるだけに、ここはもうちょっと親切な対応が望まれるところだ。渡辺訳版(179頁)では狭いスペースに細かい活字を使いながらも、A(1)+B(2)+R(100)+A(1)+X(60)+A(1)+S(200)=365と、これが人名ではなく魔法の呪文だということまで解説している。また渡辺訳には、謙遜して「略年譜」と題してあるが、全27頁のすばらしいエラスムス個人史年表もついている。

 だが、本文の読みやすさという点では、旧漢字、旧仮名遣いの渡辺訳より沓掛訳のほうがはるかに勝っている。64節末尾の、本来は黒魔術を使う連中だけを対象にした厳罰の主張を、後世の無学な神学者たちが悪事一般に拡大解釈してしまったことを説明するくだりが、良い例だろう。渡辺訳では「『悪事を為す者maleficusは生かし置くべからず……』しかし、この掟が妖術師や魔法師に対して作られたものであり、ヘブライ人は、かういふ連中を、maleficusといふ語で訳される言葉mahascefimと呼んでゐるのだといふことを誰一人考へようともいたしませんでした。本義に據らぬ限り、この死刑宣言は、肉交にも泥酔にも適用されることになりかねませんね」(渡辺訳、217頁)となっている。

 じっくり読めば正確に読み取ることはできるが、現代人にとって分かりやすい表現ではない。それが、沓掛訳ではこうなっている。「『悪事をなす者(maleficusマレフィクス)は生かしておいてはならぬ』……この掟は占い師や妖術使いや魔術師に適用されるものであって、ヘブライ人が自分たちのことばで『メカシェーフィーム』と呼んでいるものだということは、誰の念頭にも浮かばなかったのです。さもなくば、姦淫や泥酔にも死刑をもって臨まねばならなくなってしまいます」(沓掛訳、205頁)

 結論として、少しでも多くの人にエラスムスの文章に慣れ親しんでいただきたい私としては、まず沓掛訳版でお読みになることをお勧めする。そして、中身がおもしろいと思った人は、きっと「この人はいったい、いつ、どこで、どんな人生を送ったんだろう」と思うはずだから、古本屋回りをしてでも渡辺訳版を探し出し、略年譜をお読みいただきたい。異端審問が年々苛烈さを増し、晩年には新教旧教両派間で血みどろの宗教戦争が戦われていた時代に、これだけ危ないことを言いつづけながら、よくまあ1536年に70歳前後で友人たちに囲まれながら平和に天寿をまっとうしたものだと感心すること請け合いだ。

カトリックは批判したが、ルター派に与しなかったのがエラスムスの偉さ

 エラスムスの舌鋒の鋭さは、形式的に「敬神」の心を判断する人には、断じて聞き捨てならないであろう次のような文章によく表れている。「果たして神による創造には、定められた瞬間というものがあったか? キリストにはいくつもの血統があったとすべきか否か? 『父なる神はその子を憎みたもう』という命題を立てることは可能か否か? 神は女だの、悪魔だの、驢馬だの、かぼちゃだの、火打石だのの形をとって姿をあらわすことができたであろうか? それができたとすれば、いかにしてかぼちゃは説教したり、奇跡をおこなったり、十字架にかけられたりすることが可能であるか?」(沓掛訳、144頁)

 もちろん、形式的には「痴愚女神が特定の派に属する神学者たちを嘲笑している」というリスクヘッジをしている。だが、だれが読んでもエラスムス自身が、この世の神学者たちすべてと、ついでにローマ教皇庁まで笑いものにしているのは明白だ。

 エラスムスが『痴愚神礼賛』を世に問うてまだ10年もたたない1517年に、マルティン・ルターがローマ教皇に対する95条の質問状を公開する。ルターは、長年ローマ教会の腐敗堕落を批判しつづけたエラスムスは、当然自分の批判を全面的に受け入れ、プロテスタント派の有力な人文学者として活躍してくれるものと思いこんでいた。そして、なかなかエラスムスが色よい返事をしないと、エラスムスのことを裏切り者として嫌うようになる。これはほんとうに独善的な態度だ。ローマ教皇庁に対する批判はいろいろあるだろうが、批判者が全員ルターを正しいと考えるはずだというのは、自信過剰をとおり越してたんなる夜郎自大としか思えない。

 おそらく、エラスムスは「ローマ教皇庁は少なくとも自分たちがつくり上げた教会組織がいかに腐敗堕落しているか知っている。だからこそ、内部から改革していけるという希望が持てる。自分たちこそつねに真理を体現する、キリスト教徒の模範だと思いこんでいるルターを始めとする新教各派のほうがはるかに偏狭さゆえの罪を犯す可能性が高い」と思ったのだろう。

そしておだやかに修羅場をくぐり抜けた実務家、モンテーニュ

 エラスムスが亡くなる直前の1533年に、フランスのペリゴール地方の名家に生まれたのがモンテーニュだ。ワイン商として財を成した家柄で、父は軍人だったが、のちにボルドー市長を務めた。本人もボルドーの高等法院に所属していた1560年に、たまたまパリに行っていて国王シャルル9世の母であり、摂政も務めていたカトリーヌ・ド・メディシスによるユグノーと呼ばれた新教徒の大量虐殺事件などにも、遭遇する。

 その後約30年間はカトリックによるユグノーに対する弾圧と、ユグノーによる武力の行使もふくめた反撃とのあいだに立って苦労しながら、1581年には「本人不在のまま」父のあとをついでボルドー市長に選出される。このころにはもう、『エセー』の原著版1~2巻は刊行されていて、モンテーニュは名士だった。しかも、たんなる名士ではない。市長に再選された1583年に「上流階級が税をまぬかれ、庶民が苦しんでいるとして、市の参事5人と連名で、アンリ3世に上奏文を送る」(モンテーニュ著、宮下志朗訳『エセー 7』2016年、白水社、364頁、略年譜)といった、けっこう骨のある政治活動もしている。

 また、もともとユグノーだったナヴァール公アンリが、アンリ3世の暗殺後、アンリ4世として即位する際に「パリはミサに値する(パリで王位につけるなら、カトリックの儀式であるミサに列席するぐらいのことは我慢する)」という名セリフを残した。まだナヴァール公だったころのアンリ4世に国民融和のためにカトリックに改宗することを勧めたのは、モンテーニュだったという説もあるようだ。

 モンテーニュは、こういうことを平然と書ける人間だった。

それに、わたしはだれも憎んだりしない。というか、人を傷つけることに対して、まるで度胸がなくて、道理を守るためであっても、そうすることができないのだ。したがって、罪人に有罪判決を言い渡さなくてはいけない場合に、わたしはむしろ裁きを守らなかった。
(同書7巻、239頁)

 なんの権力も権威も持ち合わせていないうちならあっさり言えるだろうが、なかなか責任ある立場に就いた人間が言えることではない。しかも文筆家としての名声が監視役をしているわけだから、この発言と反対のことでもしようものなら世間の風当たりもはんぱではなかっただろう。「文は人なり」というが、私のごく限られた体験から判断すると、書かれた文章と書いた人間とが同じ印象を醸し出すことは少ない気がするが、モンテーニュは実際にも他人を裁くよりは判断停止をする人間だったらしい。

 それにしても、カトリック狂信集団である旧教同盟にいったん身柄を拘束されながら、この集団のパトロンだったカトリーヌ・ド・メディシスのとりなしによって無傷で釈放されたというのだから、かなり頑迷な信念の持ち主に対しても魅力的な人だったのだろう。

輿の乗り心地の悪さに託した、キリスト教徒の蛮行批判

 モンテーニュのエセーの中で、いちばん好きなのは邦訳版最終巻でもある第7巻ではなく、同書第6巻に収録された「馬車について」だ。馬車に乗って揺られているのは、馬にまたがっているより気分が悪い。まして、人が肩で担ぐ輿となると、乗り心地は最低だというところから語り出す。途中にぬけぬけと「わたしは若い頃には、ほかに自分を飾るものがなくて、好んでおしゃれをしたし、それが似合っていた。世の中には、身にまとったりっぱな衣装が泣いているような人だっているのだ」(同書6巻、242頁)とさり気なく、若き日の容姿を自慢したかと思うと、名君伝説、暴君伝説、古代ローマの闘技場のバカバカしいほどのスケールの紹介と、取り留めもなく話は進み、いったいどこに連れて行かれるのかと思ったころに、スペインの征服者たちによるインカの王に対する残虐で卑劣な蛮行にからめて、予想外のかたちで「輿の乗り心地の悪さ」という主題が帰ってくる。

 あのペルーの最後の王は、捕えられた日にも、彼の軍勢の中央で、そのようにして黄金の輿にかつがれ、黄金の椅子に座していたのだ。スペイン人たちは王を生け捕りにしようと考えて、担ぎ手たちを殺して、王を地面に落とそうとしたのだが、死んだ担ぎ手に代わって、次々と新たな担ぎ手がきそって現れるので、連中をいくら殺しても、王を落下させることができなかった。そこで最後には、一人の騎士が、馬上から王の身体をわしづかみにして、地面に引きずり下ろしたという。
(同書6巻、264頁)

 もちろん、この王のみならずまわりの臣下たちの尊厳に満ちた姿を紹介する前に、キリスト教徒であるはずのスペイン人たちの暴虐も、しっかり糾弾している。

 もしも彼らに、キリスト教というわれわれの信仰を広めたいという目標があったならば、土地を所有することではなく、人心を獲得することで、信仰が広まるのだと考えたはずだ。そして、やむをえず戦争となった場合には、その結果としての殺戮でもう十二分であったはずであって、まるで野獣に対してするように、無差別に虐殺をおこないい、鉱山労働に従事させるための奴隷の数だけをわざわざ確保して、武器と火あぶりのかぎりを尽くしての絶滅作戦など不要であった。
(同書6巻、261頁)

 カトリックには、現地に宣教師として派遣されて、スペイン人たちの蛮行を痛烈に批判した修道僧ラス・カサスがあり、ローマ教会組織の腐敗堕落を心から憎みながらも、その弱点ゆえに内部からの改革は可能だと信じた人文学者エラスムスがあり、これだけ公平に「野蛮人」の高貴さと、キリスト教徒の野蛮さを告発する地方政治の実務家モンテーニュがいた。その結果、カトリック各国は、新世界でも現地の先住民を絶滅させることも完全に隷属させることもできなかった。

「エセー7」

 一方、イギリスのプロテスタント信者たちが「丘の上に燦然と輝く理想の町」を築くために移住した十三州植民地、後のアメリカ合衆国ではそれから約300年後にいたっても、メソジスト派の牧師を兼ねていた騎兵隊の隊長が「シラミの卵からはシラミしか孵らない。大きいのも小さいのも全部殺せ」と言って、女子どもまでなぶり殺しにした。そして、アメリカでは先住民は人口の1%にも満たないほどの極少数の少数民族となり、アメリカは世界最大最強の資本主義国にのし上がった。マックス・ヴェーバーには想像もつかなかった意味で、たしかに「プロテスタンティズムの倫理は資本主義の精神」なのだ。