[ 特別記事 ]

いま、「歴史」を問いなおす

関曠野ロングインタビュー 第1回 思想と歴史について

2017年1月22日

 1. なぜ思想史が重要なのか

【質問(以下Q)】今回の本(『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』)を関さんご自身は、どのように読者に読んでもらいたいと思っていますか。

【関曠野(以下、関)】この本は、三室勇さんに聞き手になってもらってえんえん話したものをまとめたものですが、読者の方にはリラックスして漫談と思って肩肘張らずに読んで、そのうえでヒントになったことをご自分でさらに追究していただきたいと思っています。

 どういう読者を想定しているかというと、一応はありまして、今の日本、戦後の日本は完全に転機がきている、遡ると明治につくられた近代日本には完全に転機がきている。日本の未来はその延長上にはないのではないかと薄々感じておられる方、そういう老若男女、すべての日本人に語りかけたいということです。一体日本という国は今後どうあるべきなのかをボンヤリとでも考えておられる方に、「考えるヒント」にしていただきたい。

 この本は学問的テーゼを打ち出したというものではないし、世界観、歴史観、イデオロギーといったものを振りかざしているわけでもない。歴史を再考することで癒される、一つのセラピーというか、療法というか、そう思っていただきたい。自分の中にどういう固定観念が無意識に巣くっているか、それを点検する機会にしていただきたい。私の言っていることに対する賛否は別にして、この本を刺激として歴史、特に日本の歴史を考え直すきっかけにしていただきたい。そのように読んでいただければ幸いです。

【Q】今回の本は、関さんのデビュー作『プラトンと資本主義』に始まる長年の思想史研究を振り返るという意味もあります。本の冒頭で、「究極の無思想」が(ある意味では)「理想」と言っております。関さんが考える「思想」とは、どのような意味か教えていただけますか。

【関】私の場合、思想史というものは、「これが本当の思想」だということを示すものではなく、むしろ私たちの中に巣くっているいろいろな過去の思想、われわれを無意識に呪縛している思想を暴き出して取り除いていく、われわれを無意識のうちに拘束している思想から解放される過程――だからさっき「セラピー」という言葉を使ったんですけれども――です。だから思想史とは、「打ちこわし」だと思っているんです。いろいろなガラクタ的思想を打ち壊したあとは、きれいさっぱり「無」になる。そういう意味では「究極の無思想」が理想だ。でも人間は完全に「無思想」になるのは無理です(笑)。究極の理想は、すべての思想の呪縛から解放された境地に達すること、それを「無思想」といっているわけです。

 私はこの本のなかで、科学哲学者ガストン・バシュラールの「認識論的障害」という言葉を使って、科学史はそうした過程として考えられると言っています。(科学史は)真理が次々に明らかになっていく過程ではなくて、われわれが現実をみるとき、無意識にかけている「眼鏡」、偏見、予断、先入観、そういうものを解体する過程といえる。先入見や通説と格闘する歴史、それが科学の歴史なのです。しかも科学においては絶えず科学の成果は修正されて変わっていくわけで、究極の真理なんてないわけです。相対性理論だっていつ相対化されるかわからない。それが科学というものです。

 科学史を例にとりましたが、私は突飛なことを言っているわけではなくて、そういう意味での「無思想」こそ、人間の究極の理想といっているのです。ただし私がこの本で取り組んでいるのは、科学史ではなくて思想史です。ここでは問題は「認識論的障害」では済まされない。われわれを無意識に支配している政治的な言説の秩序が問題になる。それをスキャンダルとして暴き、うち壊す作業が課題になります。われわれはさまざまな過去の思想に知らず知らずに呪縛されています。たとえば庶民は思想家や学者と違って素朴な実感の世界に生きていると思われていますが、実際は社会生活の中で過去の思想を全身の皮膚や手穴から吸い込んでいます。人間は小学生くらいになれば、頭のなかは思想で一杯になっている、思想史はそういう人間を無意識に呪縛している思想から人々を解放する治療の作業なのです。

 ですから思想史家の仕事は、哲学者とは反対のものになります。現代人とくに知識層を自負している人たちは「人間は現実に対して批判的な態度をとるべきだ。社会の現状に不満であることが理性的で自立した人間であることの印だ」と信じていることが多い。こういう態度について三つほど指摘しておきたいことがあります。まず第一に、これは、人間は偏狭で一面的な思想を是正してより高次の普遍的な思想に知的に上昇していくべきだという、基本的に哲学的な考え方だということです。第二に、こういう批判的思考の元祖はドイツの哲学者カントだということです。第三に、昨今欧米で話題になっているリベラルな知識層と台頭するいわゆるポピュリズムの対立の原因は、リベラルが無意識のカント主義者であることにあります。

 「自由主義」は19世紀の西欧で生まれた言葉です。自由主義の祖とされる 17世紀の英国のジョン・ロックがそう自称したことはなかった。彼は自分の金儲けを怪しげな宗教論で正当化しただけです。しかし18世紀には海洋商業国として興隆する英国がヨーロッパ大陸でも近代化の模範になり、それと共にロックが模範的思想家とされることになった。だが、英国では富の源泉が地主貴族層の不動産から商工業ブルジョアジーの動産に順調に変わっていったのに比べ、大陸では大地主の貴族や聖職者がしぶとく根を張っていました。だから英国流近代化を目指す改革派は、ロックの議論をキリスト教に代わる体系的な倫理や世界観に仕立て上げる必要に迫られ、それが「啓蒙主義」になりました。この啓蒙主義を代表したのがカントの哲学です。

 他方、18世紀の英国では経済の発展を反映してベンサムの功利主義が生まれた。しかし19世紀に産業革命が進展すると、英国でもロックやベンサムの議論を国家が拠りどころにできる体系的な倫理や世界観に洗練することが必要になった。そしてベンサムの粗野な功利主義を修正して自由主義に定式化したのが、J・S・ミルです。ミルはこの修正では詩人コールリッジを介してドイツの理想主義哲学の影響を受けています。一般にミルの功利主義とカントの理想主義は正反対の思想とされていますが、私はむしろミルがベンサムにカントを接ぎ木できたことに注目しています。

 カントの哲学も近代ヨーロッパにおけるキリスト教の衰退、市場経済の勃興、自然科学の誕生を踏まえています。カントにとっても人間は、まず欲求する存在、欲求を効果的に満たせる最適な手段を比較考量する存在です。つまりカントの理性的で自立した人間は、一皮剥けば功利的利己的打算的な「経済人」なのです。その理性は、功利的な快楽計算を上品に言い換えたものです。経済的後進地域だったドイツでは、英国流の金儲け哲学にヴェールをかけて取り澄ましたモラリズムに仕立て上げる必要がありました。

 だからカントは今日のリベラルの元祖なのです。そして昨今アメリカで論議の的になっているポリティカル・コレクトネス(=政治的言動における行儀のよさ)の元祖でもある。ついでに言うと、欧米でリベラルとポピュリズムが対立する主なきっかけになったのは、難民移民の問題でした。リベラルは難民移民の無防備な受け入れを人権論で正当化しました。そして現代の人権論の源流になっているのもカントの道徳哲学です。リベラルの世界市民主義による国境の廃止や現実を無視した難民移民の受け入れが社会に今のような大混乱をもたらしている以上、現代の人権論のカント的抽象性観念性は問題にされざるをえないでしょう。

関曠野氏(トリミング)

関曠野氏

  ここまで科学史を例にとって「思想からの解放」ということを説明してきましたが、これはある意味で日本人には直感的にわかりやすいのではないかと思っているんです。西洋人にはこういう発想は難しい。つまり彼らは「無」と言われると、「存在の否定」としての「無」と考えてしまう。存在か無か。イエスかノーか白か黒か。だが日本人は、たんなる存在の否定ではない無、という考え方にたぶん仏教の影響で慣れていると思うんです。だから通俗的なチャンバラ映画でも、試合に臨む剣豪の無心の境地とかね(笑)、出て来ますよね。日本人は、たんなる空無、欠如、空虚ではない「無の境地」という言い方がわかるところがある。たとえば、昼なお暗い森の中にぽかっと木が生えていない小さな草地があって、そこに明るく太陽の光が差し込んでいると、そういう「無」ですね。そこにこそ存在としての存在が明るく輝いて現れる、こういう発想が日本人にはわかるのです。これは西洋人には簡単にはわかりません。日本人なら仏教を知らない人でも。そういう「無の境地」というものを漠然とは理解できる。

 そしてこの「思想からの解放」という視点からは、ヨーロッパで成立した「思想として支配する権力」というものが大きな問題になってきます。身体・生命・財産を支配する権力というのは、地上のどこにでもありました。しかしこういう権力は誰の目にもわかりやすいので、被支配者によって容易に反撃されたり制約されて、その影響力の拡大には限度がある。恐ろしいのは「思想を支配する権力」なんです。人間を改造して思想を支配する。そういう権力をヨーロッパはつくりあげてきた。

 その原型がキリスト教の宣教です。宣教とは現代の洗脳の元祖みたいなものでしょ。そういう意味で西欧のキリスト教会というのは洗脳の制度であって、それがヨーロッパの近代の学校に受け継がれた。近代ヨーロッパの学校はプロテスタンティズムの産物ですが、それが人間は段階的な学業の過程で知識をためこんでいって、真理を自分の財産にできるというような発想を広めた。それが最後には、ジョージ・オーウェルが告発したような20世紀の全体主義を生み出したのです。そうした全体主義の典型がレーニンです。レーニンは、人類は歴史の中でさまざまな思想を相対化していくが、それによって絶対的真理に近づいていくと言っている。そういう考えがあるからテロを平然と正当化できるんです。

 20世紀は、思想による支配、イデオロギーの支配が絶頂に達した世紀でした。これは単にスターリンが悪い、ヒトラーが悪いといって済む問題ではありません。一般のマスコミだってそういう洗脳の装置ですしね。現代は中世のような暴力ではなく言論によって統治される時代です。だから洗脳や嘘がかつてなく権力者の戦略的な秘策になる。そして21世紀の現在における洗脳装置の最たるものは、経済学だと思っています。どの流派の経済学も科学に見せかけられたドグマです。そして近代経済は貨幣によって組織されているのに「貨幣とは何か」という根本問題をすっぽかしています。それなのに経済学ほど科学的で実証的なものはないみたいに思われている。経済学を知らない人間には経済を語る資格はないみたいになっている。

 旧ソ連のマルクス主義はいかにも出来の悪い洗脳装置だったので、妄説であることがすぐにばれて崩壊しました。今は、自由主義がやはり洗脳装置だということが否応なく表面化してきて、戦後のアメリカ流ケインズ主義やネオリベラリズムがドグマとして根本から揺らいでいます。私がこの本で紹介している、20世紀初めに社会信用論を創始した英国のエンジニア、クリフォード・ヒュー・ダグラスは、こういうドグマとしての経済学を一掃した人です。彼は経済活動を可能にしている貨幣という制度を考察の中心に据え、通貨はシステムとして理解すべきであることをはじめて明らかにした人です。

2.プラトンとヴィトゲンシュタイン

【Q】本のなかでは、旧約聖書の思想に始まり、プラトンからキリスト教、それから修道院の修道士タイプが近代の工場の原型になって、それがマックス・ウェーバーのいう資本主義の精神の原型であるカルヴィニズムの基礎になっているという展開になっています。プラトンがなぜ重要なのか教えてください。

 【関】プラトンは、「思想による支配」の原型をイデア論という形でつくった人間です。世間の人間が馴染んでいるさまざまな観念は、炎に照らされて洞窟の壁に映っている物事の影にすぎない。哲学者だけが暗い洞窟を抜けだして真理の太陽を仰ぎみているという。これが「真理権力」の定礎になった議論です。

 ただ、プラトン自身はこれをジョークのつもりで言った可能性があるのです。若き日のプラトンは偉大な政治家や詩人としてアテネ市民に称賛される未来を夢見ていた。ところがこの夢は民衆派が勝利したアテネの改革で実現できなくなった。そこで挫折したプラトンは、一生ひねくれ者ですごして対話編を書き綴ってウサを晴らしていた。プラトン自身、対話編は遊びで書いている、と言っているのです。だからプラトンの議論には多分にジョークの要素がある。そのジョークが本当になっちゃったのは、ローマ帝国を支配した貴族層がプラトン哲学を体制の思想的支柱として全面的に採用したからです。そしてローマ帝国の滅亡後。西方キリスト教が帝国の思想的文化的遺産を継承し、物事の善悪について民衆を思想的に指導する教会というかたちで、真理権力の土台がつくられた。ヨーロッパの歴史は、この思想を支配する権力が、キリスト教から啓蒙主義へと形は変わっても、ますます巧妙に完成されてきた歴史なのです。それが最後は、イデオロギーで民衆を洗脳する全体主義にまで行ってしまった。

 そういう真理権力の実現にはヨーロッパ型の学校がかなり役割を果たしていると言いましたが、ご存じのとおりプラトンはアカデミズムの元祖でもありまして、そういう点では真理権力の制度化にも彼は貢献しています。

 だから私は、認識論的に間違っているとしてプラトンを批判しているのではありません。思想による権力と支配の様式としてプラトニズムを問題にしているのです。プラトン自身、その著作を権力論とみなしていたので、これは正しい解釈のはずです。そしてプラトン以来のヨーロッパ哲学のロゴスを一挙に清算したのがヴィドゲンシュタインです。ヨーロッパの形而上学の伝統を完全に解体して更地にしてしまったのは、ニーチェでもハイデガーでもなくて、ヴィドゲンシュタインですよ。地味な問題をコツコツと問い詰めていって、最後には西洋のロゴスを完全に清算してしまった。その点でヴィドゲンシュタインはすごい人だと思います。

 彼は論理実証主義から出発しましたが、後にそれとは正反対の立場に移行しました。ヴィトゲンシュタインによれば、言語活動は開かれた対話としてしか成立せず、私的な言語というものはありえない。言葉に抽象的で固定された意味はなく、言葉の意味とはさまざまな状況や文脈に相関した言葉の「使われ方(=use)」のことである。そして言語は、哲学者が考えるような論理的なものではなく、言語ゲームなのだという。

  これは外国で暮らして外国語を自然に身に着けた人なら、うすうす気づいていたことでしょう。ところが哲学者は自分の商売道具である言語のことをまともに考察したことがなかった。その結果、哲学は形而上学といったかたちで現実には存在しない虚偽の問題を作り出したとヴィトゲンシュタインは言います。だから彼の仕事は「真理の追求」ではなくて、そうした問題が存在しないことを明らかにして人々を虚偽の問題から解放する治療の作業なのです。

 近代の哲学者は自分の議論が「科学的」であるかのように見せかけます。だがヴィトゲンシュタインは哲学と自然科学を峻別します。彼の科学観を私流に言い換えますが、科学者の仕事は実験と観察で、これはひとつの活動です。たとえば野原で虫を見ている昆虫学者は自然がやる実験を観察しているわけです。だが哲学者は書斎で椅子に腰かけて考え込んでいるだけです。そして哲学というものは、プラトンが対話篇「パイドロス」で持ち出した「魂の自己自身との対話が可能である」という議論と共に始まったのです。哲学者は内省し自問自答しながら確実で究極的な真理に到達することができる。ギリシャではこの思弁的方法はディアレクティケーと呼ばれましたが、これが最後にヘーゲルの弁証法的に自己展開するロゴスに行き着いたのです。

 そして先にお話ししたように、プラトンはたんに虚偽の問題を作り出したのではない。彼には人々を思想で支配する真理権力を生み出すという政治的動機がありました。そうなると、文献学者として出発してキリスト教と哲学のロゴスを根本から揺るがすに至ったニーチェがやはり重要になります。真理の権力という視点からすると、哲学はたんに空虚な思弁ではなく、西洋における権力の歴史と一体のものなのです。

 そして付け加えると、哲学者が言葉で仕事をしながら言語に無関心だったことは、経済学者が経済活動を成立させている貨幣というものを考察してこなかったことによく似ています。貨幣は物々交換をより円滑にする手段といった皮相な見方で済ませてきた。この点で、ダグラスは、ヴィトゲンシュタインが哲学に対してやったことを経済学に対してやったと言えるでしょう。

 プラトンの真理権力論の前提は、この世にさまざまの価値あるものが存在するのではなくて、「価値それ自体」というものがイデアとして存在するということです。そしてこういう価値自体という観念がないと、経済学の理論は成立しません。経済学は、いろいろな価値ある商品を単一の貨幣的価値に還元します。哲学者が「知への愛」で絶対的真理をイデアとして追求するように、資本主義は絶対貨幣を追い求める、抽象的な量としての貨幣を限りなく蓄積しようとして止まない。この点で、プラトニズムが資本主義を知的に準備したといえるわけです。

3.「旧約聖書」の思想

【Q】本書タイトルの「なぜヨーロッパから資本主義が生まれたか」でいえば、プラトンの思想がヨーロッパの資本主義を遠因だというところが重要なポイントですね。

【関】そうですけど、プラトンは対話篇をジョークで書いた可能性があるわけで、ギリシャのままだったら、「昔プラトンという変なやつがいたね」ということで終わったでしょう。ところがローマ人がプラトニズムを体制のイデオロギーにした。だから私はローマの重要性を強調しています。ただしローマではまだあくまで支配層・富裕貴族層の教養にすぎなかった哲学が、キリスト教会に受け継がれ、聖書と合体して、そこで真理権力というものの定礎ができあがった。教会が物事の悪も善も判断して、民衆は教会の指導に服することになった。そして思想史上、西ヨーロッパの歴史の最大のアイロニーは、カトリック教会の権威に反逆したプロテスタントが真理権力をローマ教皇から奪い取って、この世の現実として完成させてしまったことです。カトリックの修道士は、プロテスタントの英米では、現世内禁欲によって富をフェティッシュとして追求するビジネスマンになりました。もちろんその背景には大航海時代以後のヨーロッパの世界制覇とかそういうこともありますが。だからプラトンの思想がすべてを生んだと言っているわけではありません――それこそ観念論になってしまう(笑)

 ヨーロッパの真理権力は、ギリシャ哲学のロゴスと「歴史は神によるヘブライ民族の救済計画」とする聖書の信仰が合成されてキリスト教になったときに誕生しました。ではこの旧約聖書の一神教とは何だったのか。まず考古学の調査ではモーセの出エジプトなど旧約聖書が語っている物語を裏付ける証拠は一切見つかっていません。モーセが後継者に指名したヨシュアがパレスチナにあったカナン王国を攻撃して滅ぼし、住民を虐殺してイスラエルを建国したとされていますが、王国の遺跡からは戦争による破壊の痕跡は見つかっていません。

 そこで考古学者からは、カナン王国が滅んだ後その住民の一部が新たにイスラエルという国をつくり、その際に前の国家体制との違いを強調するためにモーセやヨシュアの物語を創作したという仮説も出ているようです。またダヴィデやソロモンの時代にはヘブライ人が地中海風の地母神など偶像も崇拝していたことは遺跡の出土品ではっきりしています。

 ですから旧約聖書が体系的に編纂されヘブライ人の一神教の神学が形成されたのは、「バビロン捕囚」の時代とみるべきでしょう。これは歴史家や考古学者の常識です。紀元前602年、ユダ王国はネブカドネザル二世に滅ぼされ、その指導層はまとめてバビロニアに強制移住させられた。こういう強制移住は古代中東ではよくあったことであり、ヘブライ人の多くは先進地域バビロニアの風土に馴染んでどんどん同化していった。しかしこの事態を決して受け入れなかったのが、ユダ王国の旧聖職者階級です。彼らは亡国はヘブライ人の信仰が不純だったからだと考え、神殿で崇拝する宗教だったものを排他的な一神教に造り直した。そしてヤハウェを法を布告する神としユダヤ教を厳格な律法の宗教にすることで、万物を創造した神が統治するいわばヴァーチャルな国家を作り出しました。そしてバビロニアの豊かな神話の世界に対抗してさまざまな物語を創作する必要もありました。

 これも思想による支配の典型的な例ですね。そしてユダヤ教のこの面をキリスト教は継承したのです。ローマ帝国は滅亡しても、その国教だったキリスト教は生き残りました。ローマの奴隷制帝国は、聖アウグスティヌスの「神の国」というヴァーチャルな国家として生き残り、そこでは万人は等しく神の奴隷になりました。そして教会の聖職者階級は生き残っただけではなく、蛮族を思想で征服して後の中世キリスト教文明の定礎を築き上げました。ここに一神教の根本的な問題があるのです。その神は万人の主人であり、皇帝や専制君主をモデルにした権力者です。そしてユダ王国やローマ帝国など滅んで歴史の闇に消えていくべき国家が、聖職者によって現実に背離するヴァーチャルなかたちで生き残り、思想を支配する権力に変貌した。ニーチェが『道徳の系譜』の中で「聖職者階級は何もないより、むしろ無があることを欲した」と言っているのは、この事実に関係しているのです。

 だから一神教の問題は、神は一人しかいないのか、大勢いるのかといったことではありません。一神教は宗教というより政治であり、権力の様式、思想で支配する権力なのです。ついでに言うと、キリスト教会とりわけカトリック教会には独特な宣教の精神があります。教会は世の終わりまで全世界を思想的に征服するために戦い続ける。なぜならキリストにおいて神が人になったということは根本的な矛盾だから、全人類を信者にしないかぎり、信仰は異論に曝されて危ういからです。キリスト教の戦闘的な宣教の精神は仏教とは対照的です。仏教は諸行無常の原則を自らにも適用し、真摯に修行する仏教者がいなくなり釈迦の教えが形骸化する末法の世がいずれ来るとします。だが末法の世が来るなら、また正法が復活する世も来るわけです。

4.「歴史」とはなにか

【Q】次に、本書の中心のテーマである歴史について、サブタイトルに「西洋と日本の歴史を問いなおす」とあります。昨今ビジネス書でも「歴史」はブームになっていますが、本書でいう「歴史」そうした教科書的な話ではないと思います。本書でいう「歴史」はどのような意味でしょうか。

【関】まず問題は、「世界史」として学校で教えられているものが、「歴史哲学」であることがあまりにも多いことです。ある種の歴史哲学が実証的・科学的な歴史であるかのように教えられて、それが現代人を呪縛しています。日本史についてはあとでお話しますけど、「普遍世界史(Universal World History)」という考え方、これはごく最近、19世紀のヨーロッパで生まれたものです。その原型は18世紀にありますが。

 もちろんヨーロッパ以外の文明でも歴史書は書かれたし、歴史についての思想も存在しました。しかし普遍世界史という思想は近代ヨーロッパの特殊な産物です。ところがこの普遍世界史という思想が19世紀以来近代世界を動かしてきました。マルクス主義がその典型だけど、人類に歴史はさまざまな民族や文明の歴史ではなく、「世界史」として理解されるべきで、この世界史には発展の法則や段階があるとする考え方です。冷戦期に旧ソ連のマルクス主義に対抗したアメリカの「近代化」論だって似たようなものです。この普遍世界史という観念は、ドイツの哲学者ヘーゲルが生み出したものです。彼は18世紀に散発的にあった「文明の進歩」論をまとめあげて「世界史」に仕上げました。これは真理権力論にも密接に関係することですが、ヘーゲルは歴史には論理(ロゴス)が内在していて、世界の歴史はその自己展開として解釈できると考えた。人間の精神はまず古代中国の易経で目覚めて、インド・中東を経て、ヨーロッパに到達した。フランス革命は精神が世界を支配していることを示した出来事だった。しかしフランスの革命思想には形式的、抽象的なものという限界があり、人間精神の発展は自己意識的な精神の国であるわがプロイセンで完成されるという歴史哲学です。

 こういう世界史なるものは、事実としての歴史では全然ない。ヨーロッパ文明の恣意的な自画自賛、自己正当化ですね。他の文明と対話しているのではないモノローグです。それを勝手に普遍世界史と称している。それでもこういう議論がまかりとおるのは、近代ヨーロッパの世界的覇権がその背景にあるからです。

 ヘーゲルには「世界史は世界審判(Weltgeschichte ist Weltgericht)」という有名な言葉がある。これがヘーゲルの歴史観を要約しています。まあ日本人は東京裁判をまさにそういう世界審判として受け入れてしまった面があるのだけど(笑)。これは結局、日本風にいえば「勝てば官軍」ということです。歴史において次々と民族が覇権を争う。でそのときに覇権を握った民族が「世界史的民族」であるとヘーゲルはいう。そういう世界的民族がなにが真理であり、正義であるかを決める。いま興隆するプロイセンがその位置にある。そういう議論なのです。

 マルクスはそれを引き継いで、プロレタリアート階級による世界革命が人類の歴史における最終的な世界審判になるとするのですが、この論理はやはりヘーゲルのものです。これがいかに特殊なヨーロッパ中心主義の自己弁明・自己正当化にすぎないか。私の「打ち壊しとしての思想史」の視点からすれば、これはスキャンダル以外の何ものでもありません。だからこの本における私の課題は、歴史を歴史哲学から解放することでした。歴史家の課題は、われわれを呪縛している先入見をたんなる先入見として考察することで、それに無意識に捉われている人を治療することなのです。

 いかにわれわれは、ヨーロッパのご都合主義的な歴史哲学を歴史そのものと勘違いしてきたか。いまだって実証的な歴史と称して人類は発展段階の法則で未開から文明に至るみたいな議論は、死滅していないわけです。それじゃあアマゾンの奥地の先住民は世界史に属していないのか、世界史に属していないから人類じゃないのか。そういうことになってしまう。といって世界各地の先住民を含めた世界史なんて書けるはずはない。だから歴史哲学は、神が人類を創造し人類の運命を左右してきた、そしてヨーロッパはその神によって祝福されているという一神教の「神の視点」の産物なのです。

 そういう意味で、世界史の概念は、遡ると、ひとつはプラトン的ロゴス、生成し消滅する現象を超えた不滅の真理があるというロゴスの論理と、旧約聖書に端を発する「歴史は神の救済計画」というキリスト教の思想、このふたつの合成化合物だということです。そこで歴史は、神の計画に従ったロゴスの自己展開ということになる。そして歴史哲学はたんなる学者の妄想ではなくて、ヨーロッパの覇権の思想的根拠とされ、植民地主義なり全体主義なりさまざまな姿をとって実際に世界政治を動かしてきた。

  この歴史哲学に対して私は、具体的に歴史を歴史として理解する戦略としてミメーシス(模倣による伝播)の視点を提起しています。歴史とはさまざまな文明の相互作用であり、それによって文明の成果が多種多様なかたちで伝播した過程のことなのです。ただしこれは、どこかにオリジナル、原本があって、他はそのたんなるコピーということではありません。反対のことが起きる。ある文明の模倣は必ず原本とはズレたコピーとなる。そうしたズレが積み重なって、やがて原本とは異質な独自の文明が形成されます。これが歴史のダイナミズムなのです。日本史を例にとりましょう。古代日本は隋唐の律令国家体制を模倣し導入しましたが、隋唐の体制にもペルシャなど西方文明のコピーの要素があります。歴史はコピーの連鎖であり、起源や原本は存在しないのです。しかも日本は隋唐の体制を模倣しても科挙や宦官の制度は採用しないなど、当初から原本からズレたコピーでした。そして平安時代になると、隋唐の文明を消化吸収した成果として、日本独自の国風文化がくっきりと現れました。文明は他の文明の成果を模倣し消化する過程においてこそ、その独自性を発揮するものなのです。これがミメーシスの視点であり、この戦略によって歴史としての歴史をより具体的に理解できると私は考えています。たとえば、この視点からロシア革命の悲劇もより明確に理解できるでしょう。歴史哲学からすると、レーニンのロシア革命は、ロゴスの新たな自己展開ということになる。しかし実際にボルシェヴィキがやったことは、ヘーゲル流の歴史哲学を愚直に妄信してヨーロッパ文明の最悪の側面を模倣することだったのです。

 ついでに言うと、このロゴスかミメーシスかという問題の原型もプラトンにあります。プラトンがソフィストを非難して「ソフィストは真理の探究に無関心でミメーシスをやっているだけだ」と言っていることは興味深いことです。 

【Q】哲学史の知識のない読者が、歴史とか世界史とかいった場合、いわゆる「世界史」の教科書のようなものを想像するわけですが、考えてみると、それも過去から現代にどうやって発展してきたかという論理の展開をしています。それも一種の「ヘーゲルの論理」といっていいでしょうか。

 【関】そういうかたちで現代人は今でも無意識にヘーゲル主義者なんです。ヨーロッパではアリストテレス以来、「生成(Werden)」は「存在(Sein)」として完成されるという思想があります。生成としての生成は不完全で未完成な、否定的な状態とされる。生成には存在というゴールがある。ヘーゲルはそういう生成が存在として完成されていく過程を、「発展(Entwicklung)」と呼んでいるわけです。このヨーロッパの存在論が旧約聖書の「歴史を司る神」という思想と一体化すると、人類の歴史には出発点とゴールがあるという議論になる。今もこの種の議論が相変わらず蔓延っています。そこでフランシス・フクヤマみたいなアメリカの議会制自由民主主義体制が人類史の発展のゴールだなどというトンデモ理論(「歴史の終わり」)が出てくるわけです。しかし歴史にマラソンのようなゴールなどあるはずもない。歴史は生成としての生成以外の何ものでもありません。仏教用語でいえば「諸行無常」ということです。人類史のゴールなどというのはほら話にすぎません。歴史に終りがある、ゴールがあるという思想は、遡ればキリスト教の「世の終わり」という思想に由来しています。

 フクヤマのように歴史哲学でデモクラシーを擁護することは、きわめて危険なことです。ロシアのボルシェヴィキも同じことをやった。その結果、共産党一党独裁やアメリカの金権寡頭体制がデモクラシーの名で正当化されることになった。私がこの本で繰り返し言っているように、人間は欠陥だらけの存在です。人間には動物のような集団形成の本能が欠けています。しかも生きていくためには分業体制の下で密接に協力し合うことが必要というジレンマがある。政治とはこのジレンマに対処する試み、創意工夫のことです。人間は政治によってこのジレンマを一時的暫定的にでも解決する必要がある。だからデモクラシーは、人間の欠陥とジレンマをしっかり認識している政治体制です。それは人間の本性をよく理解しているから相対的にもっともすぐれた政治体制なのです。

 ところが歴史にゴールがあるとする思想は、人間に常につきまとうこのジレンマが最終的に解決されるユートピア的な、ありもしない事態を想定しています。だから歴史哲学はデモクラシーにとってきわめて危険なものなのです。 

 (以下第2回に続く)