[ 連載 ]

マンガこそ読書だ!!

第11回 『傘寿まり子』(おざわゆき・講談社)

2017年1月15日

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 20年くらい前だろうか。若い女性の間で、「将来、かわいいおばあちゃんになりたい」という言い方がちょっとだけ流行したことがある。私は「かわいいおばあちゃん」という言い方になんとなく違和感をもち、「かわいいおばあちゃんになるくらいなら、むしろクソババアになったほうが楽しそう」と心の中でこっそり考えていた。今にして思うとそれは、「かわいい」という言葉が、年を重ねても他者からの視線を意識して、周囲の人たちにウケるようにふるまう……という意味に感じられて「トシとってまで人にどう見られるか気をつかって生きるより、自分の意志を優先させたいわい!」という反発だったのかもしれない。

 しかしトシを重ねて50代も目前となった現在、己の欲望のままにふるまって「あのクソババア」と陰口をたたかれるような人になるには、実は相手の反応に傷つかない鈍感力や人間的なパワーなど、それはそれで選ばれし資質が必要だとわかってきて、小心者でパワー不足の私にはどうやら無理そうな道だとわかってきた(無自覚に人の迷惑になる系統のクソババアになってしまう可能性はあるが……)。

 さらに、結婚はしているが子どもがいない私は、今よりさらに体力が衰えるであろうそう遠くない老後、いったいどうやって生きていけばいいのかな……、と考えはじめると、漠然と不安でどよ~んと暗くなってしまいがちだった。

 だが、そんな私に希望を与えてくれる、高齢のヒロインが登場した。

 八十歳、傘寿の幸田まり子さんである。

 まり子さんはベテランの作家。夫は亡くなり、息子夫婦、孫一家と四世代同居中。四世代には狭すぎる家での生活は喧嘩が絶えず、自分の記憶力や体力の衰え、仕事の先細りにも寂しさを感じている。そんな中、かつての作家仲間のあるできごとをきっかけに、家を出ることを決意する――。

 まり子さんは住む家、家族、そして仕事と、なにもかももっていて、一見何不自由ない理想の老後生活を送っているように思える。でも実情は、かえって一緒にいること、距離が近いことが家族間のいさかいの原因になっていたりする。作中で描かれるかつての仕事仲間のある悲しい事件もそうだが、「特に高齢者にとっては、家族が一緒にいることこそが幸せ」という固定観念も、場合によってはかえって、一人でいるより孤独、ということにもなることすらこの作品はさらりと描いてみせる。

 そしていさかいの絶えない家族の暮らす家から、まり子さんがリュックひとつで家を出る、という展開には驚いた。年齢が上がると、環境が変化することは、楽しみから、むしろしんどいことに変わることが多いものだ。もし私がまり子さんの立場なら「居場所としての自宅」に執着して自分の権利を主張してしまいそうだが、なんとまり子さんは(もちろん相当の覚悟のうえだが)軽やかに家を出てしまう。そんな彼女は、ネットカフェで寝泊まりしつつ原稿を書いたり、思わぬ出会いでともに生きる相棒を得たりもするのだ。

 誰でもそうだと思うけれど、年齢というのはある日突然そのトシになるわけではなく、その人なりに日々を生きてきて、気づけばその年齢になっている……という感じのものだと思う。まり子さんも、家を出ていざ生活していこうとすると、「幸田まり子」という一人の人間というより、「高齢者」(しかもホームレス)という枠組みではかられてしまうという現実に直面する。そして、客観的に自分の年齢に伴うリスクも把握しつつも、自分が何者であるかに関係なく頼ってくるある命との出会いを経て「誰かのために生きる」ことを決意し、改めて「高齢者」である自分が生きるとは、どういうことなのか?ということに向き合う。

 「残りの人生って何?」

「死ぬ瞬間までそれは人生の本番で真剣勝負じゃないの」

「高齢者という名前だけど 私は私」

 というまり子さんのモノローグ(p.110~111)は、無意識に年齢なりの「枠」にはまらないといけないのかな……と怯えていた私にとって、「トシをとっても別の人間になるわけじゃないんだ」という真理に気付かせてくれたのだ。

 だがもちろん現実には加齢による衰えはあって、まり子さんも物忘れもひどいし、体力だって昔のようにはいかない。「高齢者」であることは、八十歳のまり子さんのすべてではなくても、まちがいなく一部だ。それでも、自分を待っている存在を迎えに行くために、「高齢者という弱者」になったことと向き合ったまり子さんはこう決意する。

「私は弱者になりたかったわけじゃない」

「だけど弱者になるのは悪じゃない」

「自分がその立場になったらこう思えばいい」

「弱者の自分を乗りこなせ」(p.152~153)

 弱者の自分を「乗りこなす」、という高らかな宣言は、加齢を無視して若ぶることを押しつけるのでもなく、しかし迷惑をかけないように、と過剰に小さくなって生きるのでもなく、自分の「衰え」を自覚しつつも希望をもって生きていくための素晴らしい気構えを凝縮した一言ではないだろうか。

 かわいくもなければクソババアというほど振り切れてもいない中途半端なかんじで年を重ねて気がつけば老後もそんなに遠くない、というところにいる私も、まり子さんの、あたりは柔らかいけれど凛とした生き方を見て、そうか、「クソババア」と「かわいい」の他にも「かっこいい」というおばあさん像があったんだな、と気づかされた(まり子さんが寝泊まりするネットカフェのオーナーも「かっこいいおばあさん」の一人だ)。

 でも「かっこいいおばあさん」になるには、やっぱり最低限の健康とか知性とか仕事のスキルとか、必要なものがいろいろあって、どうも私にはハードルが高そうでもある。が、たとえフィクションであっても、80歳にして「これまで」にしがみつかず、軽やかに新たな生活にとびこんで人生を切り開いていく大先輩の姿は

「私にはできなくても、まり子さんがいる」

「ああいう生き方だってありなんだ」

と思わせてくれて、とても勇気づけられるのだ。そしてそういう存在が、老後を「考えたくないおそろしい未来」ではなく「しんどいことや不自由になることはあっても、ちょっと楽しみな将来」に変えてくれる気がするのだ。

 軽やかにぶっとんだ人生の先輩っぷりを見せてくれ、ほのかにロマンスの香りもあったりする「ヒロイン」まり子さんの冒険を、これからもわくわくしながら読んでいきたいのである。