[ 連載 ]

社会科学の制度論的転回

第7回(特別編) 青木昌彦氏の制度観について

2017年2月9日

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 スタンフォード大学名誉教授の青木昌彦先生が逝去されてから,早くも一年以上が経過した.この間,青木先生がかかわりを持ったさまざまな団体主催で多くの追悼集会が開かれ,私の知っている限りでは今後追悼号が予定されている専門雑誌もある.私自身,2016年3月27日に開催された進化経済学会全国大会のなかで,青木先生を追悼するセッションを企画・開催し,ドイツから招いたカーステン・ヘルマン-ピラート氏と,中国から招いたチアファ・チェン氏とともに青木先生の制度論に関する発表を行った.今回は,本連載の一回分をお借りして,私が考える青木先生の制度観について述べてみたい.本連載のテーマは「制度をつくる人間」観であって,後の方でも,再び参照点としての青木先生の制度観に立ち返ることになるだろう.

 1. 『比較制度分析に向けて』における青木先生の制度の概念把握

 制度をどのように概念化するべきかというテーマは,青木先生の業績のなかでも比較的言及されることの少ない部分である.しかし私が知る限り,これは青木先生が最晩年までもっともこだわりを持ち続けたテーマの1つであった.実際,青木先生ご自身がこのテーマを巡って行われた国際的論争に関与している.その内容は,青木先生が亡くなった直後の2015年の9月に発行されたEAEPE(European Association for Evolutionary Political Economy)の機関誌Journal of Institutional Economicsにおいて,制度の理論に関する特集号として刊行されている.そこではフランク・ヘンドリックスとフランチェスコ・グアラの論文を中心として,それに青木先生を含め,ジョン・サール,ロバート・サグデン,ヴァーノン・スミスなど名立たる学者が寄稿し,論争が行われている.この論争を読む限り,この問題は狭い意味での経済学に留まるものではなく,社会科学全般の地平を拡張する潜在的可能性を持っていると思われる.

 青木先生が1980-90年代以降にゲーム理論を用いて制度分析を行い,日本やアメリカの比較を行ったことはよく知られているが,彼が初めて「制度とは何か」という問いを発して,本格的に制度の概念化に取り組んだのは,2001年に発表された『比較制度分析に向けて』においてであった.

 その背景には,1990年にダグラス・ノースが『制度・制度変化・経済成果』を執筆し,「制度は社会におけるゲームのルールである.あるいはより形式的に言えば,それは人々によって考案された制約であり,人々の相互作用を形づくる」(North 1990, 邦訳p.3)という有名な制度の概念化を提起した他,1994年には同僚のアブナー・グライフが「文化的予想(さまざまな状況で他者がどのように行動するかについての個々人の期待)と組織(ゲームのルールを変更する内生的な人的構成物)であり,それらは適用される際に必ず均衡(したがって自己拘束的)でなければならない」と制度を定義したことなどがある.青木先生もまた彼らとの議論に関与し,その内容に刺激されたのだと推測される.

 青木先生は『比較制度分析に向けて』で取り上げる基本的な研究課題を,以下の2つのこととして設定している.第1は,「(現代)経済における全体的制度配置の複雑性と多様性を,ある種の複数均衡として理解すること(共時的問題)」であり,第2は,「均衡としての制度観と整合的な枠組みの中で,制度進化のメカニズムを理解すると同時に,新奇性が創発する可能性を許容すること(通時的問題)」である(Aoki, 邦訳書p.5).ここで読み取れるように,大きく分類すれば,青木先生の制度観はどちらかといえば,アブナー・グライフに近い均衡論的制度観である.

 さらに,こうしたアイデアを敷衍して,17ページにおいて以下のような図を掲げつつ,青木先生は,制度は「ゲームが繰り返しプレーされる顕著な仕方に関する共有された信念の,自己維持的なシステム」であると定義し,図の破線の枠がそれに当たると述べている.

 

 
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図 1  Aoki (2001)における制度把握

 

  先に述べた2つの研究課題との関連で述べるならば,第1の「共時的問題」はこの図の上の左右に並べられた2つの枠に関連しており,これは複数均衡の発生をも含めて,通常のゲーム理論的な分析(標準的ゲーム理論または進化ゲーム理論)によって扱うことができる部分である.ある制度が均衡として成立する理由と,さまざまな制度が存在する理由がゲーム理論の均衡概念を用いて分析されるのである.問題は,第2の「通時的問題」である.これは上図の下の部分に関連しており,人々の間にどのようにして制度の認識が生み出され,共有されるのかを表現している.また,この部分は制度変化の主要な原因となるので,制度変化の分析にも関連する部分である.青木先生が,この部分を破線で囲み,「制度は破線の枠で表現されている」とした点が重要である.通常のゲーム理論で分析できるところよりも,人々の間で制度的信念が維持されつつ変化する動態という,なかなかフォーマルなゲーム理論に馴染みにくい部分に,青木先生の関心はあったのである.しかしながら,制度とは何なのかという問題意識を共有しない多くの経済学者にとっては,この制度観は難しく感じられることになったように思われる.経済学者はしばしば「街灯の下で鍵を探す」と揶揄されるように,自分が扱える強力なツールの観点からしか問題を見ようとしない傾向を持つが,青木先生はその視点をはるかに超えて制度の本質を捉えようとしていたのである.

 このような制度把握の特徴は,以下のようにまとめることができる.第1に,制度の認知的な側面を強調しているということである.「われわれはこれらのルールを,主体たちの戦略的インタラクションを通して内生的に創出され,主体の心に抱かれ,そのようにして自己維持的となるものとみなす」という表現に見てとることができるだろう.これは,破線の部分の表現である.

 第2に,外的環境とのインタラクションを強調したことである.確かに,制度は内生的に創出されるものであるが,それはまた主体たちの外部に客観化されたものとして現われるのである.このことは,「均衡の顕著な特徴は・・・主体たちの心の外部に,それに対応する記号的表現を持ち,彼らの信念をコーディネートする」といった表現や,「内生的に創出されているにもかかわらず,制度は客観化される(objectified)」といった表現に見出される.図1の右下の「競合的なシンボル・システム」という表現もこれに類するものであるといえよう.このようなアイデアも通常の経済学的思考の内部にとどまる限り,理解しにくいところだが,後に青木先生が認知科学の最新の知見を取り入れつつ,明確な「外在主義」へと移行する足掛りになった部分である.ここでいう外在主義とは,人間の認知が「心」の内部で留まるのではなく,身体や外部環境とのインタラクションのなかで行われていることを明確に認める立場のことだと言っておけば,ここでの理解には十分であろう.本連載でも後にその意義をさらに掘り下げて取り上げるつもりである.

 2. Aoki (2011)における制度の概念把握

 青木先生はその後さまざまな紆余曲折を経て,東京財団の資金支援のもと,Virtual Center for Advanced Studies in Institution (VCASI:仮想制度研究所)を創設するに至った.この研究所は,経済学がその内部に実験経済学や行動経済学などを展開するようになり,既存の枠を超え出ようとしている現状を踏まえ,哲学,認知心理学,脳科学,進化生物学など,さまざまな分野の第一線で活躍する学者たちをフェローとして招待し,今流に言うならばSNSのようなものを立ち上げて,仮想空間上で学際的な討論を行う場となることを目的として設立されたのであった.仮想空間上での討論だけではなく,リアルな研究会もコンスタントに行われたが,その様子は現在も残っているウェブページ上で確認することができる(http://www.vcasi.org).これと並行して,NTT出版からは叢書《制度を考える》のシリーズ刊行も進められた.「制度」という言葉をキーワードにして,経済学の学際的研究を展開しようとしたのである.

 この研究所で立ち上げられたいくつかのプロジェクトのうち,主として「社会のルール」という研究プロジェクトにおいて,青木先生はさらに自分の制度把握を追求していくことになった.私の知る限りでは,このプロセスと並行して,VCASIの外部でもフランシス・フクヤマ,ダグラス・ノース,ハーバート・ギンタスなどといった学者との交流を深めていた.こうして,その成果の1つとして2011年にJournal of Economic Behavior & Organizationに発表されたのが,”Institutions as Cognitive Media between Strategic Interactions and Individual Beliefs”という論文である.

 この論文は,既存のさまざまな制度概念を統合するという極めて意欲的な意図のもとに書かれている.しかし,制度を「ゲームのルール」として捉えるダグラス・ノース流の制度観への批判が本論文の主な導きの糸となっていることは否定できない.制度を「ゲームのルール」(ゲームから主体の利得を除いたゲーム形)と見なす観点は,客観的なゲームのルールがすべての主体にとって「共通知識」であることを前提としているが,おそらくそのような前提は成立していないと青木先生は述べる.ここでややテクニカルではあるが,「共通知識」とは何かについて述べておかねばならない.ある事象が共通知識であるとは,単に全員がそのことを知っているだけではなく,全員が知っていることを,全員が知っており・・・というように,無限に続くことをいう.しかし,このような強い条件がゲームのルールに対して成立していないのではないかというのである.

 そこで青木先生は,むしろ一般に「社会的ゲーム(societal game)」をプレーする「ルール」の方が共通知識になっているのだと考えた.社会的ゲームとは,さまざまなドメインでプレーされているゲームを抽象化した一般的ゲームのことであるが,そもそもわれわれ人間は社会的ルールに従って社会的ゲームをプレーする存在であると考えられる.ゲームのルールが共通知識であると考えるのではなく,それがプレーされるパターンがそれぞれのドメインにおいて共通知識であると考えるのである.引用すると,「社会的ルール,あるいは深い構造における制度」とは,「社会的ゲームが再起的にプレーされ,プレーされることが期待される仕方についての,共通に認識された,顕著なパターン」のことである.

 そのうえで,青木先生はこの論文において,どのようにして社会的ルールが維持されるのかという問題を提起し,それへの回答を試みている.彼は最終的に自らの制度観を「認知的媒介物としての制度観(institution-as-cognitive-media-view」と呼んだが,それは制度を,社会的人工物という実質的形態をとり,社会的ゲームにおいて,戦略的インタラクションと個々人の信念とを媒介する役割を果たすもの,つまり社会的ルールを維持するものとして捉える観点である.たとえば,伝統的に経済学者が研究対象としてきた,市場もまた社会的人工物である.

 この表現を見る限り,青木先生はここでも『比較制度分析に向けて』の問題意識を引き継ぎ,制度の認知的側面に焦点を当てていたことがわかるだろう.ただし,以前の定義よりも一層外在主義的な方向に傾き,制度は何らかの仕方で人工物に実質化されなければならないと考えていることがわかる.この点は後にカーステン・ヘルマン-ピラート氏によって指摘されたように,ヘーゲルの「客観的精神」の概念と極めて類似しており,青木氏も「ネオ・ヘーゲリアン」という言葉を用いている.

 しかし,この論文の実質的な点は,青木先生が「社会のなかで共有信念がどのようにして形成されるのか」という問題を改めて提起し直し,この問題に認識論的ゲーム理論のツールを用いて回答しようとしたところにあると考えられる.具体的には,その回答を哲学者デイヴィド・ルイスが1969年に発表した『黙約(convention)』という本の中に見出し,それを認識論的ゲーム理論を用いて定式化したのである.

 ここではその詳細を省くことにするが,オーマンが提起し,経済学者に広く受け入れられるようになった,集合論をもとにした知識の定式化をもとにしていることが重要である.しかし,そこにルイスのアイデアを復活し,ある公的命題(図2の「公的表現P*」)が存在し,人々が同様の推論をすること(「対称的推論」)を仮定することで,人々のプレーの状態m(a)が共通知識になるというのである.こうして公的表現は,プレーの状態と人々の信念を媒介する重要な役割を果たす,制度コア部分とされ,「制度の実質的形態」と呼ばれることになる.

 ちなみに,この考え方の道筋は,ハーバート・ギンタスによっても辿られており,ほぼ同じ結論が得られている.ハーバート・ギンタスはここで説明した枠組みで言うと,公的表現としての「文化」の役割抜きには,人々が安定的にゲームの均衡をプレーすることを説明できないとする.このことは,ゲーム理論がそれ自身の足だけでは立てないことを意味しており,ゲーム理論だけでなく,文化の発生を説明する社会学,認知科学等との学際的協力を通してのみ,人間行動科学,社会科学の統合が可能であると主張しているのである(Gintis 2009).

 

 
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図 2 Aoki (2011)における制度の概念化

 

3. 青木昌彦の制度観から何を学ぶのか

 青木先生のこのような制度の概念化から何を学んでいくのかは,この世に残されたわれわれ一人一人の課題である.私自身は,制度概念を追求する中で青木先生が認知的外在主義に向われたことを大いに評価する一方で,最終的にはオーマン流の既存の知識の定式化に訴えて,社会のルールが共通知識となる条件を探求されたことに対しては疑問を呈さざるをえない.

 そもそも青木先生はゲーム理論を自家薬籠中のものとして具体的な経済分析を行う一方で,制度分析の観点からゲーム理論にフィードバックすることをつねに考えていた.制度概念を探求したAoki (2011)では,自らの依拠する方法について,「私は主として,リベラルな再解釈をもって,ゲーム理論的な言語と思考枠組みに依拠している」と述べている.しかし,肝心なところで,狭い意味でのゲーム理論に近いところに依拠してしまったのではないだろうか.

 オーマン流の知識の定式化は,集合論に基づくもので,世界のすべての状態の集合がきわめてきっちりと分割されている状況を前提とするものである.しかし,この定式化がわれわれが日常的に経験する知識のあり方を捉えきれていないことは確実である.また,そのことにこそ,この定式化では『比較制度分析に向けて』の第2の研究課題に掲げられた「新奇性が創発する可能性」を許容することが困難だと思われる理由が潜んでいるように思われる.

 ここでヒントになるのは,下條信輔(2008)で暫定的に提案されているような,「前意識的表現」をも含んだ知識のモデルである.下條は知識が不透明であることの意味を真剣に受け取り,発見や発明に伴う認知的プロセスを説明することのできるモデルとして,知識が2つの層からなっていることを主張している.1つは「意識的表現」であり,これはわれわれが知っており,それに気づいているような知識の部分である.もう1つはわれわれが前意識的に知っているが,気づいていない「前意識的表現」である.このモデルによって,なぜ創造的発見が困難なのかということと,それが一度なされたときに,われわれがすぐにそれとわかるのはなぜなのかが説明できる.

 このモデルはまだまだ精緻なものとなっているとは言い難い.しかし,心理学や行動経済学について多くのことを学んだ21世紀初頭の現在においては,われわれの行動を規定している「知識」が,明確に意識されている知識だけに限定されると考えることが問題含みであることは明らかなことのように思われるのであり,下條のモデルは代替モデルを考える際のヒントを与えてくれる.

 われわれがルールに従うことの深い理由については,まだまだわからないところが沢山あるが,その部分を補うには,広い意味での進化心理学,発達心理学,認知心理学,それらに基づいた哲学などの知見が必要だと思われる.そこでの知見が向かっている方向は,数学的・論理的な知識論ではなく,人間本性に潜む根本的な性向なのではないだろうか.本連載の今後は,この路線を目指して進むことになるのである.

 

参考文献

 Aoki, M. (2001), Towards a Comparative Institutional Analysis, MIT Press (邦訳:瀧澤弘和・谷口和弘訳,『比較制度分析に向けて,NTT出版,2001).

Aoki, M. (2011), Institutions as Cognitive Media between Strategic Interactions and Individual Beliefs, Journal of Economic Behavior and Organization, Vol.79, pp.20-34.

Gintis, H. (2009), The Bounds of Reason, Princeton University Press (邦訳:成田悠輔他訳『ゲーム理論による社会科学の統合』NTT出版,2011)

North, D. (1990), Institutions, Institutional Change and Economic Performance, Cambridge University Press (邦訳:竹下公視訳『制度・制度変化・経済成果』晃洋書房,1994).

下條信輔(2008),『サブリミナル・インパクト』ちくま新書