[ 連載 ]

新聞の正しい読み方

第3回 小説・映画にみる調査報道(2)

2016年12月21日

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「シン・ゴジラ」や「君の名は。」のヒットに隠れてあまり目立ちませんが、テレビや新聞などマスコミを舞台にした映画が、日米で相次いで公開されています。前回の小説に続き、映画が描くスクープの風景から、近年の調査報道が抱える問題や困難さについて考えたいと思います。

 『スポットライト 世紀のスクープ』

 今年春に公開された『スポットライト 世紀のスクープ』は、実話を再現した作品です。2001年、米ボストングローブ紙は、カトリック教会が司祭による児童の性的虐待を隠蔽している事実をスクープし、世界に衝撃を与えました。この映画は、その報道に関わった人々の物語です。

 この映画は、実際に行われた取材活動の様子を忠実に再現しています。例えば、記者たちが司祭の人事記録を資料室で分析する場面が出てきます。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、資料に出てくる特定の記述が、実は不祥事の存在を暗示していることに気づき、それを手掛かりに関係者への裏付け取材を進めていくのです。

 この流れは、「ディープスロート(ネタ元)が記者に機密を囁いてくれる」といった、映画で描かれがちな取材風景よりずっとリアリティーがあります。仮説を立て、それを資料で調べ、相手が否定できないファクト(事実)を集めたうえで関係者を問い詰める、というのが調査報道の一つのパターンであり、この映画もまさにそういう流れになっています。駆け出しの記者には、教材としての価値も高いと思います。

 もう一つ、私が元新聞記者として興味深く感じたのは、この大スクープにつながる取材が、新しく赴任した編集局長が過去記事に注目したことからスタートしている点でした。

  神父の不祥事や処分についてのニュースは全米で散発的に報じられており、グローブ紙でも地元の事件を全く報じていなかったわけではありません。それどころか、教会で性的虐待が繰り返されていると同紙に内部告発した人も、少なからず存在していたのです。にもかかわらず本格的な取材につながらなかったのは、記者たちが事件をルーチンワークとして処理してしまい、その裏に広がる闇に気づかなかったからです。小説の回でも述べましたが、ここでも「問題意識」を持てるかどうかが、鍵だったのです。

  この作品で記者たちが立ち向かう「敵」は、一義的にはカトリック教会です。信者の多いボストンでは、教会は地域社会に強い影響力を持っています。このため、一見するとこの映画も「ジャーナリストが巨悪と戦う」という、お馴染みのストーリーのように感じられます。

  しかし、話が進むうち、構図がそれほど単純ではないことが分かってきます。なぜなら、カトリック教会の恥部を暴くということは、それを支持している地元住民、つまり新聞社にとっては経営の基盤である「読者」の信仰心を傷つけかねないことに、記者たちが気づいていくからです。同時にこれは、事件が長年、表沙汰にならなかった理由でもあります。被害者やその家族にとっても、カトリック教会と対立すれば、地元の共同体を敵に回すことになりかねないからです。

  私自身、映画で描かれている記者たちの葛藤には、身につまされるものがありました。今でもジャーナリストを志す人のほとんどは、「市民の側に立って権力と戦う記者」というイメージを持って業界に入ってきます。しかし、実際の報道は、そんなにすっきりした正義感で語れるものではありません。

  実は、報道機関にとって最大のタブーは、政府でも広告主でも宗教でもありません。それは、自分たちを経済的、政治的に支えている「読者」や「視聴者」を敵に回すことなのです。しかし、社会の構造的な問題をえぐるスクープは、しばしば結果としてこのタブーに触れてしまいます。自分たちの支持基盤であるはずの市民を怒らせたり、傷つけたりしてしまうのです。そうして生まれた反発がインターネットによって増幅し、拡散する現在、ジャーナリストはかつてとは少し違った「覚悟」を求められているのだと思います。

 『ニュースの真相』

  『ニュースの真相』も、舞台はテレビ局ですが、「権力」対「市民の側に立つ報道」という単純な図式が成立しなくなっている時代を映し出しています。舞台は2004年のアメリカ。実際に起きたCBSの報道番組『60ミニッツ』の「誤報」事件を描いています。

  主人公はニュース番組を担当する女性プロデューサーで、彼女を支えるのは大ベテランのアンカーマン。二人を軸とする取材チームは、再選を目指すブッシュ大統領の軍歴詐称疑惑を追う中で、市民から証拠となる文書を入手します。関係者や専門家に裏付け取材をすると、若き日の大統領がコネを使ってベトナム戦争への従軍を避けていた実態が浮かび上がります。

  ところが、このスクープを報じた直後、ブロガーが「証拠とされた文書は偽造されたものだ」と指摘します。取材チームが調べてみると、確かに怪しい部分があり、信憑性が揺らいできます。結局、それをきっかけにテレビ局には批判が殺到。主人公はネット上で「炎上」状態に陥るのです。

  取材チームは、大統領という権力に立ち向かっているつもりが、文書の偽造疑惑をきっかけに視聴者からの猛攻撃を受ける事態に陥ります。詰めが甘い部分があったにせよ、大統領候補の兵役逃れ自体は報じるに足るテーマですし、関係者の証言などは揃っていました。そもそも偽造文書も、ブッシュ氏を攻撃しているマスコミを陥れ、疑惑の存在から目をそらすために仕掛けられた罠である可能性が高いものです。しかし、CBS側は視聴者からの批判を受け、全面降伏します。

  2作品とも、米ワシントンポストの記者らによるウォーターゲート事件報道を描いた『大統領の陰謀』(1974年)と比べると、マスコミの置かれている立場の違いが鮮明になります(ちなみに、『ニュースの真相』のアンカーマン役は、同作品で記者を演じたロバート・レッドフォードです)。かつて、映画で描かれるジャーナリストの敵は、たいてい政府や有力政治家といった分かりやすい「権力」でした。報道は「市民の側」にいて、敵は「向こう側」にいたのです。

  しかし、「市民」や「権力」がマスコミを通じることなく、インターネットで直接発信を始めた現在、こうした単純な図式は成り立たなくなりました。それは、報道機関が批判する「権力」もまた、「市民」の支持を得ている存在だということが、可視化されたからでしょう。大統領にしても教会にしても、背後には必ずそれを支持するたくさんの市民がいます。そして、ジャーナリストという「代理人」を必要としなくなった市民は、むしろ「第四の権力」である報道機関に、不信の目を向けるようになっているのです。

  最近、マスコミが政権批判を躊躇しているのではないか、という声を聞く機会が増えました。「政権がマスコミに圧力をかけているからではないか」と感じている人が多いようです。しかし、私の経験に照らすと、それはやや皮相的な見方のような気がします。そもそもジャーナリストにとって取材先から圧力がかかるのは日常茶飯事です。「訴えてやる」「広告を引き上げる」「記者会見で出入り禁止にするぞ」と脅されることは、実はまったく珍しくありません。そんなことでいちいち怯んでいては、仕事にならないのです。

  私はマスコミの権力批判に力がなくなっているように見えるとすれば、ジャーナリストたちが「市民から支持されている」という実感を持てなくなったからではないかと考えています。例えば、安倍首相は保守層を中心に幅広い国民の支持を得ていますが、新聞は同じくらいの固い支持基盤を持っているでしょうか。少なくとも、最近の記者たちはそこまで自信を持てていないと思います。いつの間にか、市民は「報道」より「権力」の方に信頼を置き始めているのです。

  これはマスコミ業界にとって、権力からの圧力よりずっと深刻な問題です。新聞社やテレビ局は巨大企業に見えますが、法的な捜査権限はありませんし、商業ベースで活動している以上、取材に投入できる資源は国家権力などに比べると微々たるものです。市民からの協力や支持、あるいは少なくとも「理解」がなければ、調査報道は成り立たないのです。

  今の風潮が広がっていったとき、どんな未来が待ち受けているのか、ジャーナリストも市民も改めて考えなければならない時期がきているように思います。米国の2作品も、そうした危機感がマスコミ産業の一翼を担う映画業界に共有され始めたからこそ、生まれたのではないかと思います。