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第6回 近代君主制と国民国家を築いた父と娘、ヘンリ8世とエリザベス1世

2016年11月8日

 

201601_NTT_増田バナー_02 おそらくは偶然だろうが、2012年にイギリス中世末期の特異な君主2代について、なかなかの名著が2冊刊行されている。1冊は指昭博編著(総勢9名の著者による論文集)『ヘンリ8世の迷宮――イギリスのルネサンス君主』(昭和堂)であり、もう1冊は櫻井正一郎著『女王陛下は海賊だった――私掠で戦ったイギリス』(ミネルヴァ書房)だ。前者はタイトルの示すとおり、毀誉褒貶さまざまで君主としての評価もさることながら、いったいどんな人物だったのかも、いまだに判然としないヘンリ8世の複雑な人間像を描いている。後者は今なお歴代イギリス君主中で最大の人気を誇るエリザベス1世を、海賊行為に強引に「合法性」の衣をまとわせただけの私掠(Privateering)へのかかわりに焦点を絞って論じている。

 ヘンリ8世は、重臣にあやつられるだけの人形だったのか?

 ヘンリ8世(在位:1509~1547年)ほど毀誉褒貶の振幅の激しいイギリス国王もいないだろう。「名君説」あり、「暴君説」あり、「生涯にめとった6人の妻との関係が良かったときと悪かったときで、名君にも暴君にもなった」説あり、「お気に入りの寵臣の政治姿勢次第で、名君にも暴君にもなった」という説まである。最後の説は、せんじ詰めれば当人は重臣に振り付けられたとおりに踊っているだけで、暴君になるだけの統治能力さえ持ち合わせていない愚昧なあやつり人形に過ぎなかったということになる。

 これは、「20世紀半ば、歴史家G・R・エルトンが、そうした歴史の転換の青写真を描いた人物としてトマス・クロムウェルの存在をフレーム・アップすると、ヘンリはクロムウェルの操り人形のような存在になってしまった」(同書、6頁)という議論だ。たしかに、この考え方を支持するような傍証も多い。

 父ヘンリ7世から引き継いだ聖職者の重臣、トマス・ウルジーに内政・外交ともほぼ一任していたころは、大陸政治に介入し、あわよくばプランタジネット家の本貫地だったフランス国内の英領を回復しようなどという無益な戦争で国力を疲弊し、財政も悪化していた。だが、夭折した兄アーサーのおさがりで妻とした、スペイン王女アラゴンのキャサリンとの婚姻無効宣言をローマ教皇から取り付ける交渉にウルジーが失敗すると、怒りにまかせてウルジーを失脚させてしまった。

 ところが、その後任に据えた世俗の臣下、トマス・クロムウェルがたまたまプロテスタント強硬派の傑物だったために、ローマ教皇庁と決別し、国王自身が宗教上の最高権威として英国国教会の首長となる体制も確立してもらい、莫大な資産を溜めこんでいた修道院領を没収し、売却することで財政の立て直しに成功し、むだな大陸内の外交・武力抗争からも距離を取ることができ、国力が回復した。

 しかし、晩年またしても宮廷内の権力闘争でクロムウェルが失脚すると力量のある重臣に恵まれず、またしてもフランスとスコットランドに対する2正面戦争で国力を消耗し、修道院領の没収売却で得た資金を遣い果たすばかりか、借金もかさんでいた。晩年かなり熱中したらしい壮麗な自分の王墓の建設は、費用がかかり過ぎるために自身の死後何十年も未完のまま放置された末に、清教徒革命時の共和派によって金目の建設資材をはぎ取られ、売り払われてみすぼらしい残骸をさらすことになった。(同書、3~5頁、202~209頁の大意)

 だが、こうした見解の難点は、そもそも自分が積極的に妻としようとしたわけではないスペイン王女との離婚が認められなかったからという、衝動的な理由でカトリックと対立する羽目になったというところだ。これはかなり無理がある。ヨーロッパ中で修道院が莫大な資産を溜めこんでいることは各国王家の羨望の的であり、信仰としてはカトリックを捨てなかった王朝でも部分的に修道院領を没収した事例は多い。いちばんセンセーショナルなのが、14世紀初めにフランス王フィリップ4世が聖堂騎士団の資産を没収するためにしかけた異端裁判だった。

 晩年自分の壮麗な墓所構築計画に入れあげるようになる前は、ヘンリ8世の金銭感覚は鋭かった。国内の修道院領を一網打尽に没収する大義名分があれば、喜んで飛びついていただろう。本書にも、「実際には、修道院の取りつぶしはヘンリの治世前半にもウルジーのもとで散発的に行われており、大陸においても宗教改革とは無関係に特定の領邦君主のもとで修道院解散が進行していた。その目的が、民衆の寄進によってため込まれた莫大な修道院財産の収奪にあったことは間違いない」(同書、116頁)とあるとおりだ。

 むしろ、ローマ教皇庁に離婚を認められなかったのをイングランド中の修道院領を没収できる好機と見て、ついでに父の代からの重臣で「肉屋のせがれ」という下賤な身分からヨーク大司教にまで出世した煙たい存在、トマス・ウルジーも失脚させようとしたのではないだろうか。この点については、大陸でカトリック対プロテスタントの対立が激化する中でルターを論駁する神学書を書いてローマ教皇から「護教者」という称号をもらったぐらいだから、宗教的には親カトリックだったはずだという反論もあるかもしれない。

 だが、ヘンリ8世がこの神学書を書いた動機としては、カトリックの信仰を守ることより、自分が文武両道に秀でたルネサンス的君主であることをひけらかしたかったという要因のほうが強かったのではないだろうか。そもそも一般大衆にとって精神生活の拠りどころである宗教は、君主にとっては政争の道具にすぎないことが多い。もちろん、中南米から流入する金銀で世界一の富裕国となったスペインを「カトリックの世界再制覇」のために何度も国家破綻に追いやったフェリペ2世とか、身も心もプロテスタントの勝利に捧げ尽くしたスウェーデン王グスタフ・ルドルフのような特異な例外はあるが。

多面性を貫く芯さえもが、二律背反的だったヘンリ8

 ヘンリ8世はイギリス国王として初めて、トーナメントの原義である馬上試合、つまり馬を疾駆させながら自分の槍で正面から迫ってくる相手の盾を衝いて、落馬させたほうが勝ちという騎士道の花とも言うべき競技に参加している。当然、打ち所が悪ければ死ぬこともあり、一生障害が残る大けがをすることもある。一国の君主という立場を考えれば、かなり軽率な行動だ。その一方で、かなり多様な楽器を弾きこなし、自分で作曲した歌曲も遺している。中世音楽史の専門家の耳で聴いても「一流作曲家の編曲に優るとも劣らぬ出来の曲もある」(同書、67頁)とのことだ。

 また、宗教改革の始まる前に痛烈にローマ教皇庁を風刺する『痴愚神礼賛』を書いていたエラスムスに、幼いころの聡明さを称賛されている。ヘンリ8世の治世も折り返し点に差しかかった1529年に、エラスムスが友人コッホレウスに宛てた書簡には「彼は、生まれながらにして器用で、乗馬や投げ矢という通常の芸では、誰よりもまさっていた。彼は万能な天才である。音楽はなかなかうまかった。数学では、非常に教えやすい生徒であった。彼が学問をおろそかにしたことは一度もなかった」(同書75頁)というベタ褒めの一節がある。それでは、ヘンリ8世は生粋のルネサンス人だったのかというと、それだけではなかった。

 カトリックということば自体が普遍的という形容詞であることからも分かるとおり、ローマ教皇庁は聖書を読むために必要なラテン語が中世の俗世間では死語となっていたことをむしろ歓迎して、神のことばを聞き、読みこなすにはだれにとっても「外国語」であるラテン語を学ばねばならないとすることで、国境、人種、民族を超えた信仰を守ろうとした。また、ルネサンスも狭い国境、人種、民族を超えて人類全体(実態はヨーロッパ諸国民だけだったとしても)にとって普遍的な価値を追い求めた。

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 ヨーロッパ諸国の王家には、特定の国の王女を嫁に取ると同時に、自国の王女をその国の王位継承者の嫁にやって、どちらかの王統が途絶えたら、世継ぎのいる王家が両国を支配するという暗黙の了解付きの婚姻政策がごくふつうに行われていた。「下々の者が王位を簒奪するような事態を防ぐためには、高貴な血筋同士で玉座をたらい回しにしたほうがマシだ」というのも、かなり不愉快な発想だ。だが、この婚姻政策の真意は、お互いに自国の国民をポーカーやルーレットのチップ代わりに賭場に積んで、世継ぎ製造競争に勝った側が総取りという、あさましい領土拡張ギャンブルだった。

 ヘンリ8世には王位を継ぐはずだった兄、アーサーが政略結婚で嫁に取るはずだったアラゴンのキャサリンを押し付けられたために、いろいろ治世初期に苦労が絶えなかった。その苦い経験から、彼はこの世継ぎ製造競争というギャンブルから手を引こうとしていたのではないだろうか。「イングランドはヨーロッパ諸国王家の通婚圏から隔絶した国であるべきだ」というのは、ヘンリ8世の信念だったような気がする。 

 また、自分の2度にわたった大陸侵攻も、結局は王位継承権をめぐる武力紛争への介入だった。このうち一度でもはかばかしい成果が得られていれば、王族通婚圏を出るという信念も揺らいだかもしれない。だが、1度目はだれが見ても分かる完全な失敗だったし、2度目もうまく行きそうもないことを悟り始めた時期に、この画期的な王位継承法を発布したのだろう。

 イングランドがヨーロッパ諸国で最初に近代国民国家を形成した理由としては、ドーヴァー海峡によってヨーロッパ大陸と隔てられているという地政学的な要因を強調する人が多い。だが、ドーヴァー海峡は遠泳に慣れた人なら1日で往復できる程度の狭い海峡だ。朝鮮半島と対馬とを隔てる海とは比べものにならないほど、地理的に近接している。「ヨーロッパ諸王家の通婚圏から離脱することで、イングランドを王位継承戦争の舞台にしない」という、ルネサンス王にあるまじき「狭量」な決意が、近代国民国家イングランドを誕生させたのではないだろうか。

 だが、どんなに反省しようと、たび重なるヨーロッパ大陸侵攻と対スコットランド戦争によって、イングランドの国家財政は肥大化していた。どのくらい肥大化したかというと、前王ヘンリ7世の治世末期である1485~90年には5万2000ポンドだったものが、王位継承の順番としては3代あとだが、自分の娘であるエリザベス1世の治世末期、1598~1600年には38万2000ポンドとなっていた。どちらも年率換算ではなく、それぞれ6年間と3年間の累計らしい。この国家財政の肥大化もまた、近代国民国家の成立と不可分の現象だった。

肥大化する財政をまかなったエリザベス1世のたくみな「戦争民営化」

 イギリスは、どうやってこの国家財政の肥大化をまかなったのだろうか。その難題をみごとに解決したのが、父王ヘンリ8世にもっとも憎まれ、ほぼ確実に無実の罪で処刑された妃だったアン・ブリンの娘で、幼少期にはほとんど女王になれそうな気配はなく、むしろ何度も命も危ない境遇に置かれていたエリザベス1世(治世:1558~1603年)だった。

 かんたんに言えば、陸上の戦争にはできるだけかかわらず、海戦の民営化とそこでの少額出資から莫大な利益を得る投資術で、のちの大英帝国の強大国への道を切り開いたのだ。元来、イギリスは陸戦での弱小国だったばかりか、海軍の整備においても、ドーヴァー海峡を隔ててすぐ東の大国フランスや、南の超大国スペインとは比べものにならないほど弱小な国だった。

%e5%a5%b3%e7%8e%8b%e9%99%9b%e4%b8%8b%e3%81%af%e6%b5%b7%e8%b3%8a そこでエリザベスは、治世初期から海軍の正規艦船同士の正面戦は避けて、主としてポルトガルやスペインの無防備な貿易船が東洋や中南米から貴重な財貨を運んでくるところを待ち伏せ、あるいは追跡して、積み荷を掠奪する道を選んだ。正真正銘の海賊行為だが、一応これこれの国の艦船に積み荷を奪われた報復として、被害額分はその国の艦船から強奪してもよろしいという許可状を発行して、「正当な報復行為」として掠奪することを私掠(Privateering)と呼んで、単純な海賊行為とは区別していた。

 この私掠の「法的な根拠」としては、イングランドの艦船一般に与えた許可状と、これこれの海域でこういう相手国の艦船を狙うという特定のプロジェクトの独占的な履行権を与える「勅許状」との2種類があった。後者の場合には、勅許状を交付する段階でかなり高額のワイロを受け取っていたから、そのプロジェクトが成功しようと失敗しようと、それなりの国庫収入はあった。そして、たとえ明瞭な国家目的のからんだ事業であっても、船団は民間所有の船舶が圧倒的に多く、女王の出す船はごく小さな比率にとどまった。櫻井正一郎は、こう書いている。

 1596年の「カディス遠征」では、全体が150隻、女王の船は15隻から18隻までであった。国家の目的が絡んでいても、国家は私掠の結果に責任を持たず、臣民の自己責任でそれは行われた。とりわけ、私掠を大商人が支配したことが、大きい意味を持った。大商人は私掠の発起、存続、獲得した積み荷の分配、換金を支配するようになった。……それに関連して、大商人は、社会の階層に変化をもたらした。私掠において、主催者のジェントリが商人たちと協同した。それより上の階層で、貴族のカンバランド伯は、私掠にうちこんだ生涯の末期には、大商人たちに支配されていた。私掠には、掠奪にとり組む構造にデモクラシーがあったが、デモクラシーが進んで、かつて権力を持っていた階層から大商人が権力を奪った面があった。(『女王陛下は海賊だった』、102頁)

 そして、東方貿易も、奴隷売買をからめたことで悪名高いヨーロッパ=アフリカ=中南米の三角貿易も、私掠で楽に儲かればそれでいいし、そううまく行かなければ植民地での「地道」な事業をやろうということから派生した「ひょうたんから駒」のようなものだった。地道といっても、アフリカ現地で黒人奴隷を仕入れて、中南米で売ったときの収支としては「1人の黒人を、現在の邦貨の5万円で仕入れて、68万円で売った記録がある」(同書、123頁)というほど、ボロい商売だったが。結論として、「私掠がなかったら、イギリスの国家はありえなかった。イギリスでそれが盛んだった時期は、16世紀の後半から、スペインと休戦した1604年までであった。その時期はちょうど、エリザベス1世の治世の時期と正確に一致していた」(同書、5頁)というわけだ。

 歴史家のあいだでは、掠奪されたポルトガルにとっては最大の被害を出し、掠奪したイギリスにとっては最大の収益をあげた私掠行為は、1592年の「神の母」号捕獲事件だったというのが、定説になっている。この私掠「事業」での有力出資者の出資額と配当額には驚かされる(同書230頁、図‐37「出資額と分配額」表参照)。女王は3000ポンドの出資で、8万ポンドの分配を受けたから、収益率2667%だ。大貴族カンバーランド伯が1万9000ポンドの出資で3万6000ポンドの分配なので、収益率189%。女王第一の寵臣だったウォルター・ローリー卿は、配下で現地に出張って命がけで実戦の指揮を執ったホーキンズとのこみで、3万4000ポンドの出資に2万4000ポンドの分配しかもらえなくて、約70%の収益率に過ぎなかった。もっともこれは、女王の寵臣でありながら侍女と秘密結婚をしていたのでご勘気をこうむって、ロンドン塔に幽閉されていたのを許していただくためのワイロを差っ引かれた結果で、自業自得という側面もある。

 一方、ロンドン商人は、メロドラマや英雄伝説のネタはまったく提供しないが、6000ポンドの出資で1万2000ポンドの分配を受け、きっちり200%の収益率を確保している。海賊といい、私掠といい、血沸き肉躍る冒険譚と思いがちだ。しかし、ちゃんと民間の自由競争に任せておけば、余計な夢や思い入れ抜きでビジネスライクに行動する商人が勝つものなのだ。その商人よりはるかに高い収益率を確保していたエリザベス1世の商才にも、あらためて感心するが。

 とにかく、2流の海洋国家だったイギリスが、近代市場経済でヨーロッパ諸大国を出し抜いて経済覇権を握った裏には、海戦の主力を海賊に担わせ、うまく行けばきっちり上前をはねるが、失敗したら「知らぬ、存ぜぬ」で押しとおす、戦争民営化の達人エリザベス1世が控えていた。