[ 連載 ]

新聞の正しい読み方

第2回 小説・映画にみる「調査報道」(1)

2016年10月3日

20160915_%e6%96%b0%e8%81%9e%e3%81%ae%e6%ad%a3%e3%81%97%e3%81%84%e8%aa%ad%e3%81%bf%e6%96%b9new_2-1

 

 新聞記者に仕事の醍醐味を問えば、真っ先に「スクープ(特ダネ)」が挙がるでしょう。世間で知られていない事件や問題を最初に見つけ出して世に問う高揚感は、一度経験すると忘れられなくなるものです。

 読者もまた、スクープを目にすれば心を揺さぶられるのではないでしょうか。驚き、怒り、続報を待つワクワク感……。ジャーナリズムの世界は、スクープを原動力に回っているといっても過言ではありません。

  しかし、ジャーナリストでもない限り、スクープがどんなふうに生まれるのか、舞台裏を知っている人は少ないでしょう。一般読者は記事を読んでも、「ネタ元は誰だろう」と考える程度で、それがどんな取材を経て得られた情報なのかを具体的にイメージできる人は少ないはずです。

 ただ、こうした報道の裏でどんなドラマが繰り広げられているかを知っておくことは、記事の信頼性や価値を評価したり、続報の展開を予想したりするうえで大きな助けになります。今回は、ジャーナリストの活躍を描いた小説を題材に、スクープの中でもとくに「調査報道」と呼ばれる分野の取材について解説したいと思います。

 スクープや調査報道については「月曜日の朝刊には特ダネは載らない?」参照

http://webmag.nttpub.co.jp/webmagazine/513/

 報道の花形とも言えるスクープですが、実はそこに至る取材は、大半がとても地味な作業の積み重ねです。資料にあたり、関係者に話を聞き、現場に行って状況を確かめます。そうして集めた情報を分析して仮説を立て、そこから予想される新たな証拠や証言を見つけるべく、取材を繰り返すのです。

 アクション映画などでは、国家機密を知る「ディープスロート(秘密のネタ元)」が登場し、ジャーナリストに資料が入った封筒をこっそり渡す、といったシーンが出てきます。もちろんそういったケースが全くないわけではないのですが、現実には人々の記憶に残るような大スクープの多くは、当局からの「リーク」一つで事件の全体像が明らかになるといった単純なものではありません。そもそも、「ディープスロート」は秘密を漏らすことで大きなリスクを負う反面、見返りはほとんどありません。ですから、集めた証拠を見せつけるなどして観念させなければ、ほとんどの場合、口を開かないものなのです。

 そうした作業はジグソーパズルによく似ています。当初、集まってくる情報の一つ一つは、取るに足らないものであったり、誰もが知っている事柄であったりします。そうしたピースがたくさん集まって、鍵となるピースがある場所にピタリとはまった瞬間、一気に謎が解け始めるといったケースが多いのです。

 そうした取材のリアリティーというのは、なかなか想像だけではわからないものです。小説などのフィクションで描かれるスクープの舞台裏には、あまりにも「できすぎて」いて、違和感を覚えることが少なくありません。

 では、新聞記者がリアリティーを感じる描写とはどんなものなのか。やはり、経験者が書いた作品に勝るものはありません。

小説でみる調査報道(1)――『罪の声』 

 最近、出た小説でいえば『罪の声』(塩田武士、講談社)もそうした作品の一つです。主人公の一人は新聞社の文化部に所属する芸能担当記者で、特集企画の取材班に組み込まれたことから、1984〜85年に発生し、2000年までに時効を迎えたグリコ・森永事件(作中では別の社名に変えてあります)の謎に挑むことになります。

 この作品に深みを与えているのは、実際の事件で使われた「子どもに現金の受け渡し方法などを読み上げさせた録音テープ」に注目した点でしょう。主人公の記者は、「犯人の周辺にいたはずのこの子どもたちは、今どうしているのだろう」という疑問から事件に迫っていきます。

%e3%80%8c%e7%bd%aa%e3%81%ae%e5%a3%b0%e3%80%8d グリ森事件はマスコミを巻き込んだ「劇場型犯罪」の典型でした。推理小説を参考にした奇抜な現金の受け渡し方法、マスコミに送りつけられるユーモアさえ感じさせる脅迫状の文面……。そうした派手な事件の展開を表面的になぞっただけでは見落としがちな「隠れた犠牲者(=子どもたち)」に焦点を当てることで、犯人の陰湿さや凶悪性を浮き彫りにしていくのです。

 こうした問題意識は、調査報道において決定的に重要な要素です。おそらく作者自身、「もし自分が新聞社でグリ森事件を振り返る連載を書くなら、どういう視点で取材をするか」を考えながら取材し、フィクションの形でまとめたのだと思います。 

 この作品の設定と同様、「大事件から10周年」といった節目には、新聞は特集を組みます。そうした記事の取材では、事件発生当時の「抜いた、抜かれた」というスクープ競争はありません。しかし新しい切り口や深い問題意識さえあれば、たとえ語り尽くされたように見える事件についてでさえ、社会にインパクトを与える「新しい事実」は発掘できるものなのです。

 ですから、こうした特集記事の質を見極める際には、取材班の記者たちがどんな問題意識、切り口を持ち、どんな新事実を発掘できたかに注目する必要があります。紋切り型の視点から取材された特集記事は、よく読むとスクープと言えるような新事実を含んでいないものです。そしてその分、大げさな描写や表現で文章を盛り上げ、読者の感情を揺さぶろうとする傾向があります。

 しかし、企画記事に限らず、本当に優れた報道というものは「ファクト(事実)で語る」ものです。そして、そのためには地道な取材と、その出発点となる「斬新な切り口」や「深い問題意識」が不可欠なのです。 

小説でみる調査報道(2)――『ミッドナイト・ジャーナル』

 企画記事型の調査報道を描いた『罪の声』に対し、『ミッドナイト・ジャーナル』(本城雅人、講談社)は、社会部で「抜いた・抜かれた」の最前線にいる記者たちの取材風景を描いています。独自の問題意識から出発して真実に迫っていく様子が描かれているという意味では共通点があるのですが、文化部の記者と社会部の記者では取材手法がまるでちがうので、2冊を読み比べると面白いかもしれません。

 『ミッドナイト・ジャーナル』は、誘拐事件を巡る誤報で飛ばされた過去を持つ記者たちが、関東で発生した児童連続誘拐事件に過去の事件とのつながりを感じ、真相を追うというストーリーです。

 この作品で注目したいのは、繰り返し描かれる「裏をとる(証拠を集める)」場面です。これは断片的な情報をもとに仮説を組み立て、それを信じるに足る事実だけで裏付けていくという地道な作業です。

 この小説の冒頭に、記者が警察から特ダネにつながるコメントを引き出すシーンが出てきます。守秘義務がある警官が漏らす遠回しな言葉のニュアンスから真実を読み取る様子は、実際にこうした取材を経験した人にしか書けないリアリティーがあります。

 しかし、このコメントを元に書いた記事は、大変な誤報になります。詳細はぜひ原作を読んでいただきたいのですが、記者やデスクの「推測」「思い込み」「願望」が、致命的な勇み足につながっていく様子も見事に描かれています。

 「断片的な情報を拾い集めて事件の全体像を描く」ということだけなら、ちょっとした想像力さえあれば、だれにでもできます。みなさんもニュースを読んで、「犯人の動機はこうなのでは」「事件の背景にはこんな問題があるのでは」と想像を膨らませたことがあるのではないでしょうか。これは人間として、自然な心の動きですし、大事件の直後にネットを見れば、そうした個人の「独自推理」であふれているものです。

 ただ、記者の仕事というのはそうした「見立て」だけでは完結しません。それを事実でもって証明しなければ記事には書けないのです。ツイッターやブログで自分の推理を披露するのと、新聞という大部数のメディアに記事を発表するのでは、この点でハードルの高さが全く異なります。

 この作品は、一般読者には見えにくく、なかなか理解されない取材の難しさを訴えようとしているように見えます。

%e3%83%9f%e3%83%83%e3%83%89%e3%83%8a%e3%82%a4%e3%83%88%e3%83%bb%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%8a%e3%83%ab 同時にこの小説の隠れた面白さは、「新聞社の記者教育がどんなものか」がわかる点にあります。ネタバレにはならないと思うので書きますが、エピローグの部分で、ベテラン記者が後輩に警察発表の裏取りをさせるシーンがあります。ベタ記事にしかならないような警察のリリースの取材を、いじめかと思うほど何度もやり直させるのです。実はこれ、新聞記者なら誰もがニヤリとしてしまうくらいの「新聞社あるあるネタ」です。

 多くの読者には、この場面の持つ意味がよく伝わらないかもしれません。しかし、ここには「これくらいやらなければ裏は取れない」という現実の難しさと、それを駆け出しの記者に肌感覚として教え込む難しさが描かれているのです。調査報道を支えるのもまた、そうしたある意味で偏執狂的とさえ言えるような確認作業の繰り返しなのです。

調査報道の意義

 最近、新聞やテレビといった主要メディアが調査報道に及び腰になっているのではないかという声を聞きます。残念ながら、最近まで新聞社にいた私も自省を込めてそう認めざるを得ません。

 しかしその主因は、一般に思われているように国家権力や広告主である大企業を恐れているからではありません。実は、最も大きな理由は、調査報道に人手やお金、時間がかかるからです。

 ここで挙げた2作品でも、「取材経費」の話が繰り返し出てきます。新聞社の経営が厳しくなった時代を映す場面といえるでしょう。しかし、明示されていないものの、それ以上に重要なのは「新聞社にとってこの調査報道がどれだけの利益を産むのか」という点です。

 この取材のために、いったいどれだけのコストがかかっているかを想像してみてください。忘れられがちですが、一連の取材は「民間企業のプロジェクト」なのです。運良くこのプロジェクトが成功してスクープが打てても、現在では売り上げはほとんど増えません。逆に失敗して誤報を出せば、劇的に販売部数や広告が減ります。さて、あなたの勤める企業で、こんなプロジェクトの企画が通る可能性はどれほどあるでしょうか。おそらく、「社会貢献事業」といった位置付けでなければ難しいのではないでしょうか。

  調査報道のコストは人件費や交通費などだけではありません。それを担えるだけの人材を育てる費用(時間を含む)も考える必要があります。『ミッドナイト・ジャーナル』を読めば、そうした教育投資の重さ、つまり一人前の記者を育てる難しさが理解できると思います。

 より短期的な観点から言えば、調査報道には「新事実が出てこなくて記事にならない」という「リスク」もあります。報道機関の経営体力が弱ってくると、幹部には「記者には確実にアウトプット(記事)に結びつく仕事だけさせたい」というインセンティブが生じがちです。

 野暮な話で大変恐縮なのですが、これらのコストやリスクを飲み込んで行われるのが新聞社にとっての調査報道なのです。

  しかし一方で、調査報道は単なるコストやリスクではないこともまた事実です。市民社会に不可欠であるのはもちろん、ジャーナリストの活力や能力の向上も促します。最近、「週刊文春」が次々にスクープを飛ばしているのも、スクープが次のスクープを生んでいる側面があるのです。

 最近、目立つようになった調査報道を描いた作品は、マスコミ業界の世界的な退潮の中で、新聞記者たちにそうした「原点に戻れ」とメッセージを送ろうとしているのかもしれません。(この項続く)