[ 連載 ]

社会科学の制度論的転回

第1回 制度的人間観に向けて

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制度的現象にみちあふれる日常経験

 まず,以下のような日常的経験の記述から始めてみよう.

 身なりを整え,自宅を出て駅へと向う.今日は朝から大事な会議があるのでいつもよりも急いでいる.こんなときは他人の家や畑を横切って近道することが頭がよぎるが,いつも通りに決められた道に沿って歩いていく.自動車が来ないので,交差点の信号は無視してしまおう.どんなに急いでいたとしても,駅には改札口から入っていく以外にない.改札口では,人々が次々とIC カードをタッチして入場している.電光掲示板には電車の発車時刻が示されている.それを見て,間に合いそうだと胸をなで下ろす.大勢の人々がひしめくホームでは,何も考えることなく列の最後尾に並ぶ.
 電車に乗ってからは,スマートフォンでメールをチェックしたり,ニュースを読んだりする.少し前までは,電車のなかで携帯電話を操作すること自体が禁止されていた.今では,シルバー・シートの付近を除いて,マナーモードでメールやニュースを見たり,ゲームをしたりすることが当然となってきた.ルールは変化するものなのだ.副操縦士の意図的な行為によってジャーマンウィングスの航空機が墜落したというニュースを読んで,自分たちが電車の運転士をまったく疑っていないことに気づいて愕然とする.もしかしたら,運転士が乗客を道連れにして自殺しようとしているなどとは誰も考えていないだろう.そんなことをいちいち考えていたならば,この社会はまったく成立しないだろう.これとは逆に,自分の命を犠牲にして他人の命を救った警察官のニュースもあったなと記憶をたどる.

 

 この日常経験の記述には何ら変わったところがない.しかしそれは,いかに多くのことをわれわれが日々当然のことと考えて行動しているのかを示してくれている.そして,われわれが当然視していることのなかにこそ,もっとも深い謎が隠されているのである.
 もしもわれわれと同じ程度の物理学の知識を持つ異星人が地球に降りてきて,上に描写したような人間生活のひとこまを観察したらどのように思うだろうか.異星人には,人間や物体が移動する様子,人間が物を生産していく様子は理解できたとしても,われわれがさまざまな制度のなかでルールに従って行動していることまでは理解できないだろう.
 だが,われわれの生活のほとんどは,われわれ自身が意識的・無意識的に設定した制度によって規制されている.われわれはまた,自分たちが作り上げた物的な人工物のネットワークにも依存しながら生活している.上記の日常経験の記述のように,われわれの行動を少し丹念に記述しようとすれば,多数の人工物が必ず登場することになる.われわれは改札機や電光掲示板のような人工物に依存しながら情報処理を行うとともに,それによって行動を規制されてもいる.
 人間は,制度や人工物によって構成された環境を自分たちの周囲に作り上げ,それらを徐々に変化させることで,今日の高度な文明を築いてきた.このことを可能にしているのは,人間が本質的に制度を作り出して,それを利用することに長けた「制度的な動物」であるからである.このような人間観ないし人間像を,本連載を通して「制度をつくる人間 (homo instituens)」と呼ぶことにしたい.”instituens”という言葉は「設置する」(そして派生的に「制度をつくる」)を意味するラテン語”instituo”の現在分詞である.
 人間が制度的動物であることは,人間が交換を行う動物であり,分業を進化させることで,他の生物種には見られないような大規模協力行動に従事している事実に深く関連してもいる.したがって,この人間像の意味を探ることは,われわれの経済や社会の本質を探ることでもある.
 だが,「制度をつくる人間」という人間観は,さらなる問いを誘発している.われわれはなぜルールに従っているのか.また,ルールを破るのはどのような場合なのか.ルールはどのようにして変化するものなのか.われわれの行動はどれほど意識的に選択されているのか.人間が生活するうえでの情報処理は,どれほど周囲の環境によって規定されているのだろうか.人々が協力的に振る舞うのはどのようなときで,どのようなときに非協力的になるのか.多数の人間の信頼,協力行動,分業という基盤のうえに成立している社会は脆弱なものではないのか・・・

20世紀社会科学の変化と制度的人間観

 本連載で主張したいことの1つは,今日の社会科学・人間行動科学における変化が次第に,上述したような制度的人間観を炙り出しつつあり,それに伴う新たな諸問題を提起して,それらに回答しようと試みているということである.
 このことがいかに新しいことであるかを理解するためには,20世紀の社会科学の人間観がどのようなものであったかを理解する必要がある.実際,人類学や一部の心理学などの例外はあるものの,20世紀社会科学の多くの領域においては,上述したような意味で制度と深く結びついた人間像は主題化されてこなかったといえるだろう.
 たとえば,20世紀の大半で主流をなしてきた標準的経済学は,そのほとんどがもっぱら市場という制度のパフォーマンスに分析の焦点を合わせてきた.そこで採用されてきたアプローチは,まず合理的で自律的な人間像を想定し,そのような個人の選択の組み合わせとして市場メカニズムが生み出す結果を分析するというものであった.経済学がときに市場以外の制度を考える際にも同様に,ロジックの出発点に合理的な人間たちの存在をおき,彼らが相互にインタラクトすることで,社会や制度がつくられていくのだという見方を採用してきた.
 今後より詳しく述べることにするが,社会現象を理解するうえで,こうしたアプローチを採用する社会制度の分析が非常に多くの成果を生み出してきたことに疑問の余地はない.しかし,1990年代頃から特に経済学のなかに多様なアプローチが出現するようになり,従来の観点から提出されてきた問いとはまったく異なるようなさまざまな問いが提出されるようになってきた.新たな問いとそれに対する回答が次々と試みられるなかで,徐々にわれわれ社会科学者の関心のありかが,制度的人間観をめぐるものに収斂してきたのだということを,今後述べていきたいのである.
 まず1990年代頃から顕著になってきた経済学の変化は,複数の主体のインタラクションを研究するゲーム理論が経済学の中に取り込まれるようになったことをきっかけとしている.ゲーム理論によって,経済学は抽象的な市場の分析を行うだけのものではなくなり,より広く,社会における人間のインタラクションを理解する試みへと変化することになった.その結果わかってきたことは,市場メカニズムがそれ自身だけでその機能を自律的に支えているわけではなく,さまざまな非市場的な経済的制度が存在し,それらが市場の機能を支えているということであった.たとえば今日ではそもそも市場が成立するうえで「社会のなかで人々が約束を守ると信頼できること」が決定的に重要であるという理解が一般的になっている.
 しかし今から振り返ってみると,ゲーム理論はいわばパンドラの箱のようなものであった.ゲーム理論を取り込んだことがきっかけとなって,経済学は,それまではあまり深く考えることもなく不可能と思われてきた「実験」という手法を積極的に採用するようになり,経済学の内部に「実験経済学」という分野が立ち上がることになった.さらに,実験で得られた結果が理論的予測と乖離することを説明するために,「行動経済学」という分野も誕生した.行動経済学はしばしば,「リアルな人間行動を分析する」経済学と紹介されている.実験経済学と行動経済学の誕生という流れの中で,さらに「神経経済学」も登場してきた.これは,脳の状態を計測する技術の進展とともに,人間が経済的意思決定を行う際に,脳のどの部分を賦活させているのかを調べることで人間行動にアプローチしようとする分野である.
 このような経済学の変化は,経済学内部だけで生じたものではない.20世紀は,人間の心理や行動に対するさまざまなアプローチが多様な分野で試みられてきた時代であった.20世紀前半には,論理学や物理学の圧倒的な成功に影響されて,人間の認知プロセスを「計算(calculus)」として理解しようとするアプローチが優勢であったが,20世紀も後半になると,進化論が持つ深い意味が理解されるようになり,人間の心の進化生物学的な側面に焦点を当てた人間行動の理解が徐々に影響力を増していくことになった.この潮流の変化は,もう少し広く表現するならば,人間の行動を自然科学的手法を用いて理解しようとするものだと言ってもよいだろう.E・O・ウィルソンの「社会生物学」における議論などを皮切りにして,心理学,認知科学,人類学,霊長類行動生態学などが,経済学よりも早く,こうした潮流の影響を受けたと思われる.経済学における上述の変化は,このような大きな動きと軌を一にして生じてきたものである.次第に,20世紀において個々の分野に専門化してきた人間科学・社会科学の諸分野は,互いに他との交流を強め,問題意識を共有するようになってきた.したがって,私が経済学を引き合いに出して述べているような人間観・社会観の変化は,社会科学の多くの分野にも当てはまるものなのである.

制度的人間観の諸要素

 本連載のテーマは,今日の社会科学・人間行動科学の研究の中で浮かび上がってきた制度的人間観とそれに伴う社会観を明確に取り出し,その意味を考察することである.もちろん,このような制度的人間観とそれに随伴する社会観は,いままさに探求が進んでいるものであり,いまだにわからない点が多い.このことを承知のうえで,制度的人間観について,現段階でもう少し丁寧に述べておこう.
 すでに述べたように,20世紀の大半を通して,合理的・自律的な個人という人間観と,そうした個人のインタラクションによって成立する社会という社会観が一般的であった.個人から社会へというベクトルの方向に注目して欲しい.これを変化の起点として捉えると,現在浮かび上がりつつある人間観,社会観は以下のようにまとめられるだろう.
 第1は,進化のプロセスのなかで形成されてきたために,現代社会の観点からは必ずしも合理的とは思われないような心の働きを内在化させている人間という描像である.さらに述べるならば,無意識的なものに動かされ,感情によって意思決定し,不合理的に行動する人間観である.すでに行動経済学の一般書が世に出回っている今日では,このような人間観の変化は,かなり一般的になったものといってよいだろう.
 第2に,制度を含めた人工物を利用しながら,認知に伴う情報処理の負荷を軽減することに長けた存在としての人間という人間観である.われわれは将来の計画を立てる際にカレンダーを必要とするし,少し桁の大きい数の計算にはソロバンやコンピュータを用いている.読者は127×9721という計算を行うのに,紙と鉛筆や,計算機を使用するに違いない.一見して当たり前のこの事実にこそ,重要な観点が潜んでいるのである.
 このことが意味しているのは,人間の意思決定にともなう情報処理の主要なプロセスは,脳の内部でほぼ完結したものとして見るべきではなく,むしろ周囲の環境とのインタラクションの中にこそあると考えるべきだということである.この観点は今日,人間の認知プロセスを脳内プロセスだけに求めていく「内在主義(internalism)」に対して,「外在主義(externalism)」と呼ばれている.
 第3に,生まれながらにして規範同調的な性向をもった存在としての人間という人間観である.人間にとってルールを守ること,すなわち社会規範に従うことは最初から本質的であって,人間は根本的に制度的・規範的な動物なのである.合理的人間のインタラクションから制度や規範が生じるのではなく,人間は生まれながらにして,制度や規範を内面化する能力を有しているのである.したがって,人間の子供は社会制度を前提とし,その中で,その社会の制度や文化に依存しながら発達を遂げていく.今日では,このことが人間に特徴的な累積的文化や言語コミュニケーション,高い知性を可能にしているという説が有力である.
 第4は,われわれをとりまくさまざまな制度や人工物に対する新しい観点である.社会のルールや制度は,そのほとんどががさまざまな不合理な要素を含んだルーチンのようなものであり,不合理性に満ちている.われわれの社会生活は,長い時間をかけて歴史的に形成されたこのような制度の複雑なネットワークのなかで行われているのである.しかし,それは同時に常に合理的な改訂の可能をも持つものである.実際,人類が生み出してきた主要な革新ともいえる,民主主義,今日あるような洗練された市場等々は合理的な企図によって作り上げられてきたものとしてみることができるのである.

なぜ人間観/社会観なのか

 読者のなかには,私が現代の社会科学が生み出している多様な成果をなぜ「人間観」や「社会観」という言葉に集約して述べようとするのかに関して疑問を持つ人がいるかもしれない.そこで,最後にそのことについて私が考えていることを述べておくことにしたい.
「社会科学の人間観/社会観」とは,社会科学の研究のさまざまな局面で前提とされる人間観のことであると同時に,社会科学の研究を通して浮かび上がってきた人間観のことである.その意味では,それはフィクションとも言えるものである.このフィクションは3つの問題を提起している.
 第1は,研究の前提としてどのような人間観を持つことが社会科学にとって有用なのかという問題である.これは通常哲学において認識論的と形容されるような問題設定である.第2は,そもそも人間とは何なのかという問題である.これは通常哲学においては存在論的と呼ばれる問題設定である.
 後に制度的人間観が炙り出されてきたプロセスを詳述するなかで,私はこれらの問いがどのように絡み合いながら,20世紀の大半を通して社会科学が抱いてきた人間観/社会観が変化してきたのかを述べることになる.しかし,私が特に注目しているのは,第3の問題である.それは,社会科学に特有の問題なのだが,われわれが自分のことをどのように認識するのかが,われわれのあり方を規定することになるという問題である.
 われわれが何者であるのかを社会科学で規定することは,一種の「分類法」を人間という「対象」に対して適用することである.しかし,そのような規定が適用されることで人間の経験や行為の理解の仕方が変化してしまう.哲学者のイアン・ハッキングは,われわれの分類の仕方が分類されている対象と,このような相互作用を持つことを「ループ効果」と呼び,それが人間科学・社会科学に特有な現象であると述べている.
 したがって私の最終的な関心は,新しい人間観/社会観がわれわれの社会にもたらすインパクトにあるといえるかもしれない.最終部分ではこのことについて述べていくことにしたい.

【文献案内】

ジョセフ・ヒース(2013)『ルールに従う――社会科学の規範理論序説』瀧澤弘和訳,NTT出版

ルールに従う 『資本主義が嫌いな人のための経済学』,『啓蒙思想2.0』,『反逆の神話』などの一般書で,そのエッセイストとしての才能をいかんなく発揮しているヒースだが,本書は彼の専門分野である哲学に戻って,自らの立場を徹底的に論じている.本書においてヒースは,人間の道徳性の説明という観点から,20世紀の社会科学の大半で前提とされてきた「道具的合理性」の意義と限界を論じ,道徳原理を組み込んだ合理性概念を提起する.その目配りは,経済学,社会学だけでなく,現代哲学や心理学,生物学,認知科学等にも行き渡っている.とはいえ,近代の合理的人間像に批判的であるものの,決して人間の生物としての側面や不合理性を全面に押し出すのではなく,最終的にはこれらの知見と整合的な人間の合理性概念の再構築を提案する.


ジョン・マクミラン(2007)『市場を創る』瀧澤弘和/木村友二訳,NTT出版
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 経済学の研究成果をつぎ込んで描かれた市場論である.市場が機能するには,さまざまな条件が必要で,その条件の多くには市場以外の経済制度が大きくかかわっているということを,古今東西の市場を論じながら解き明かしていく.数式が一切使用されていないので,するする読める内容だが,実はその背景にはゲーム理論を使用した現代経済学の成果が控えている.

中野央(2015)『人間進化の科学哲学』名古屋大学出版会

 nakao(2) 近年,人間行動を進化的に考察する「人間行動進化学」と呼ばれる領域が急速に発展し,社会科学者にも大きな影響を与えるようになってきた.本書は,この領域の主要な研究プログラムである,進化心理学,人間行動生態学,遺伝子と文化の二重継承説を対象として,その方法や内容をめぐる論争点を科学哲学の立場から整理してくれている.これらの研究のアプローチが既存の社会科学や人文科学とどのように関係しているのかも論じており,本書の主題は本連載のテーマとも重なりあっている.