[ 連載 ]

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第5回 ナチスは絵に描かれているほど黒くはなかった

2016年7月24日

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 2003年9月に草思社から単行本で刊行され、2015年8月に同社文庫に収録されたロバート・N・プロクター著、宮崎尊訳『健康帝国ナチス』は、いろいろ考えさせられるところの多い本だ。「悪魔は絵に描かれているほど黒くはない」という英語のことわざがある。悪評ばかり聞かされてきた人に会い、悪役ばかり振られてきた国を訪ね、暗いと言われつづけていた時代の史料を渉猟すると、意外にもおもしろいところも、いいところも、魅力的なところもあるものだという意味だ。

 ナチス党員やシンパの医者だって、優秀な人もヤブもいた

 第二次世界大戦後の執拗な戦勝国によるキャンペーンのおかげもあって、我々がナチス党員やそのシンパだった医者がいたというような話を聞くと、どうしても「せっかく医学を修めるほどの知的能力を持ちながら、社会常識に欠けるところがあって妙な研究課題に没頭していた変人・奇人のたぐいだろう」と決めつけてしまいがちだ。たしかに、第三帝国全盛期のドイツでは、ナチスの肝いりで、まったくのお笑いネタからまがまがしい実話まで、そうした印象を裏付けるような研究も行われていた。

 お笑いネタのほうから、本書にも登場する実例をひとつ挙げておこう。せっかくアーリア系の純血種の家庭に生まれながら「不幸にも茶色や黒の瞳を持つ」人たちの瞳に青い色素を注入すれば、青い瞳に変えられないだろうかという研究は、大まじめで行われていたらしい。本書で直接言及されているわけではないが、ナチス・ドイツにおける「ユダヤ人問題の最終解決策」なるものが、なるべく大勢のユダヤ人を密閉した部屋に押しこめて毒ガスで安く大量に殺戮することだったというのは、まがまがしい真実の代表的な事例だろう。

 だが、読者の皆さんはナチス専制下のドイツではガンの予防検診・早期発見態勢の確立が、他の先進国が追い付くには戦後20~30年を要するほど進んでいたといった話を聞かされると、どうお思いになるだろうか。もちろん、どんなに狂信的なナチス支持の医師・研究者だって、ナチス思想に共鳴し、心酔している「純良なるアーリア系ドイツ人」だけを選別的に救おうなどというケチな料簡でガンの早期発見態勢を築こうとしていたわけではない。

 それどころか、当時人命に対する最大の脅威だった結核の発見のために照射するX線に発ガン性があると警告したのは、主としてナチス系の医師や研究者たちだった。これに対して、左翼系の医師や研究者たちのほうが当時の放射線万々歳という能天気な時代風潮を反映してむしろ批判的で、1932年に社会主義者医師協会は「ナチスのX線照射への疑念は人種的狂信主義だ」と嘲笑していた(同書、127頁大意)というのだから、問題は複雑だ。

 「いや、ナチス・ドイツが行った数えきれないほどの蛮行に比べれば、この程度の善行で埋め合わせることなどできない」と割り切ってしまうのは、あまりにも教条主義的だろう。本書の重要な論点でもあるのだが、こうした態度は、今後同じように熱狂的な大衆運動を基盤に権力を握ろうとする勢力が出現したとき、「こんなに立派なこともしているのだから、悪事ばかり働く狂信者集団であるはずがない」と思って寛容になってしまう危険をはらんでいる。

 統制を要求する社会運動の熾烈さで、ナチス・ドイツはアメリカに及ばない

 もう少し微妙な例を取り上げよう。ナチスが関与した国民運動の中には、禁酒・節酒運動、禁煙・節煙運動、菜食主義運動もふくまれている。第一次世界大戦直後の興奮冷めやらぬ1920年にアメリカで制定された禁酒法や、やはりアメリカで1970~80年代に猖獗をきわめた嫌煙運動のように、「オレの言うことを聞かない奴らは非国民だ」といった狂信的な態度はさほど感じられず、さまざまなニュアンスがあって、各派が比較的自由にそれぞれの主張を認めた上で論争をしていたということだ。ドイツではナチス政権下でさえ、なんとか多様な思想潮流が論争を維持していたのに対し、アメリカは禁酒法時代から現代にいたるまで、とにかく他人の思考や行動様式を統制しようとする方向にどっとなだれこむ暗い情熱を秘めた人の多い国だという印象はぬぐえない。

「健康帝国ナチス」

 一方、菜食主義とも関連した流れで、「全粒粉を焼いたパン以外は、パンを名乗ってはいけないという法律をつくろう」というような運動には、現代先進諸国を覆う「健康にさえなれれば死んでもいい」的な非論理性あふれる健康食品ブームの源流が感じられる。ナチス親衛隊長官ヒムラーは、国民の食生活をどのように変えるつもりかと聞かれて「パンのなかに含まれる全粒粉の割合を法律で規制する」(同書、199~200頁)と答えたそうだ。

 こういう法律の提唱者たちは、「もし、混ぜものをしたり、麦粒の薄皮を除去したり、果ては漂白剤で白く見せたりしたようなまがいものにはパンと名乗らせないという法律を制定すれば、手軽で割安なら成分にはあまりこだわらない多くの消費者のライフスタイルまで変えることができる」と信じていたのだろうか。現代の食品の不当表示糾弾運動の担い手たちにも、「全粒粉で焼いたパンだけがパンと呼ぶに値する」と主張したナチスの生活改善運動の闘士たちの直系の子孫のような人がいるのではないだろうか。当人たちは血相を変えて否定するだろうが。

 さらに複雑なところまで話を進めよう。現在も人体解剖図譜としては世界最高の権威があると言われる『ペルンコップ臨床局所解剖学アトラス』なる学術研究の成果は、どうやらナチス時代に解剖医たちが、獲れたてホヤホヤで体温のぬくもりが残っているような死体を比較的自由に切り刻むことができたという研究環境の恩恵をこうむっているらしい。

 同書はしばしば解剖図の最高峰、「他の解剖図の評価基準」と言われるほどのもので、外科医は手術の前に参照し、コンピュータ作成の解剖図にすら参考文献として挙げられる、正確さとリアルさで評価の高いものである。 

 ……解剖図のモデルに使われた死体がナチスのユダヤ人・ジプシー狩り、「安楽死計画」の犠牲者のものではないかという疑いが浮上する(死体のなかには強制収容所でおこなわれていたように髪を丸刈りにしたものがいくつかあり、割礼の痕[あと]のある死体も少なくとも一体ある)。

 さらに、エードゥアルト・ペルンコップ博士自身が有力なナチス党員で、……ウィーン大学医学部の学部長に任命され、そこで197名の教授のうち、すべてのユダヤ系と、共産主義者など合計153名の解雇を指示し、そうした功績によって43年学長に任命されている。(同書、386~387頁)

 当然のことながら、とくに統制主義志向の強いアメリカでは、この解剖図譜を医学研究の成果と見るべきか、ナチスによる戦争犯罪の証拠の一部と見るべきかで議論が沸騰する。次に引用する『アメリカ医師会ジャーナル』という一流学術誌へのニュージャージー州のある医師からの投稿は、かなり高い知的能力を持っているはずのアメリカ人医師の唯我独尊的傲慢さをみごとに披歴している。

 《ナチスの医学的遺産は我々の正当な医学の伝統・医学文献から抹殺されるべきであり、ただ、ペルンコップ一味が人間性の埒外へ踏み外した者どもであることを忘れないためのシンボルとしてのみ保存すべきものであることで、多くの歴史家と倫理学者の意見は一致しています》(同書、388頁)

  もし、この「多くの歴史家と倫理学者」なるものが、投稿した医師の頭の中ででっち上げられたものだとすれば「ちょっと不気味な人だな」程度にとどまる。だが、アメリカという国の怖さは、ほんとうにこういう偏狭な考え方で意見の一致を見た多くの歴史家と倫理学者がいるのかもしれないというところにある。

 次に引用する著者の結論は、穏健でバランスのとれたものと言えるだろう。

 ナチスの医学できちんと記憶されているのは、その残虐な部分である。が、それは全体のうちの一部にすぎず、それを全体と考えれば我々の理解は歪曲されたものとなる。……我々はファシズムの酷さばかりでなく、ファシズムの豊かさをも理解しなければならない。戯画化された悪魔として、他の時代、他の土地との関係をすべて抹消するためにでっち上げられた案山子(かかし)のような存在としてファシズムをとらえてはいけない。

 ……ナチス・ドイツだけが異質な、特異な存在だったという快適な考え方には意義を申し立てる必要がある。ナチス的なものは1933年以前にもあり、1945年以降は、東は共産圏からアジアへ、西へはヨーロッパ、アメリカにも広がっているのである。(同書、390~391頁)

  だが、著者がこの結論への導入部として書いた、以下2人の歴史上の人物に関するたとえは、著者の意図をはるかに超えたところで、ヨーロッパ文明一般に対し、また。アメリカ史に対する痛烈な批判となっている。

 プラトンが奴隷制を擁護していたことによって、その倫理観と美的価値観は穢れるのだろうか? 政治家としてのジェファーソンの名誉は、奴隷所有者としてのジェファーソンによって貶(おとし)められるのだろうか?(同書、390頁)

 もちろん、奴隷制を擁護したことによってプラトンの倫理観や美的価値観が穢れるわけもないし、奴隷所有者だったことでジェファーソンの政治家としての名誉が傷つくわけでもない。だが、それは奴隷制を擁護し実践することが取るに足らない瑕瑾だからではない。プラトンがいまだに西欧哲学思想の鼻祖のひとりと崇め奉られているのは、西欧文明全体の倫理水準の低さを示しているだけのことだ。そして、奴隷である黒人女性に自分が生ませた子どもが一生奴隷として生きていくことになんの痛痒も感じなかった巨大プランテーション主ジェファーソンが建国の父とほめたたえられ続けているのも、アメリカの白人たちが共有する差別意識がいかに根深いかを示しているだけのことだ。

 統制への暗い情熱は現代欧米の建築思想に脈々と受け継がれている

――『デザイン・アウト・クライム――「まもる」都市空間』

 イアン・カフーン著、小畑晴治・大場悟・吉田拓生訳『デザイン・アウト・クライム――「まもる」都市空間』(2007年、鹿島出版会)には、人間生活のあらゆる側面を統制せずにはいられない欧米知的エリート層の暗い情熱が噴出している。本書で最大の驚きは、原著がアメリカよりはるかに順調に人種統合が進んでいるように思われがちなイギリスで出版されたという事実だろう。そして、全編を貫いているのは、いかにして住宅地開発プロジェクトの設計プランニング段階から、犯罪を抑止し、封じこめることにかけては「元祖」であるアメリカから進んだ事例を学ぶかという問題意識なのだ。

旧大英帝国は、例外なく犯罪大国

 しかし、下に引用するかんたんな表を見ると、これは決して不思議なことではない。むしろ「イギリスやカナダやオーストラリアは、アメリカよりずっと犯罪発生率が低いはずだ」という思いこみがまちがっていたというだけのことなのだ。

 

増田第5回図表JPEG(2)

1998年の人口10万人当たりの犯罪発生件数

 (同書、2ページよりフォーマットを変えて引用)

 ただし、侵入盗の発生件数は、旧大英帝国の版図に収まっていた諸国が、それ以外の日独仏より少なくとも2倍以上多い。それでも旧大英帝国諸国は、このはるかに高い住宅やオフィスや店舗などへの侵入盗発生頻度の根源にある、すさまじい経済格差に向き合わない。「どんな問題にも技術的解決策はあるはずだ。犯罪の発生そのものを防ぎとめることができなければ、自分たちのコミュニティだけでも巧妙な設計によって犯罪を排除しよう」と考えるのが、英米プラグマティズムの古式ゆかしい伝統なのだろう。 それにしても、すべての犯罪の発生件数では、アメリカはこの7ヵ国中で日本に次いで2番目に低く、ヨーロッパ諸国とは有意な差があるという事実は衝撃的だ。表面では立派な建前を並べても、黒人世帯やヒスパニック世帯に生まれたら、一生所得は白人世帯の約6割、資産にいたっては白人世帯のわずか1割という抑圧された地位に置かれることが分かっているアメリカのマイノリティは、建前と現実との差に対する怒りが犯罪として噴出する度合いが、人種間の平等や統合が進んでいるような幻想に満ちたヨーロッパ諸国より低いのかもしれない。

その具体策は、「べし」「べからず」の大洪水

 こうした発想がいかにグロテスクな監視社会を生み出すかは、以下の断片的な引用で十分すぎるほどお分かりいただけるだろう。

監視

 居住者は、建物内外の公共的空間の周りで何が起きているか監視できなくてはならない。そのためには

■窓は、……外部と内部の公共的スペースを見渡すことができるようにしなくてはならない。

■テラスハウスの妻面には窓を設け、家の面する街路やオープンスペースを見渡せるようにしなくてはならない。

■正面玄関は、……街路に面するようにしなくてはならない。

■建物内部のすべての共用エリア……は街路から見えるのが望ましい。条件が許せば各住戸の窓からも見えるようにすべきである。

■避難階段は、ガラス窓付きで建物外側に設けて、利用者が建物の正面に出られる構造にしなくてはならない。

(同書、39頁)

 

 当然の展開と言うべきだろうが、こうした宅地開発の設計思想全体を相互監視による犯罪抑止に絞りこむ発想からは、アメリカで顕著に発達した「ゲーテッド・コミュニティ」が高く評価されることになる。

■米国の大規模な「ゲーテッド・コミュニティ」が、他の国々でも受け入れられつつある。「ゲーテッド・コミュニティ」は、開発業者にとって、他の開発方式より利益につながることが判明した。したがって、新しい住宅地でのCPTED[環境デザインを通じた犯罪抑止―引用者註]認証の可能性は、収益の上がる方式で設計計画による防犯を市場化することが重要となる。

(同書、55頁)

 「経済合理性の高い」住宅開発という問題設定から出発すれば、「ゲーテッド・コミュニティ」の付加価値を高く保つには、周辺の無防備な都市区域は犯罪が多発する環境だという条件が必要不可欠だという視点がみごとに抜け落ちていく。そして、完全に私的政府と化した「ゲーテッド・コミュニティ」内に民間警備会社から派遣された職員は、構内見回りひとつとってもプロファイリングと呼ばれる犯罪抑止・操作技術を駆使するように訓練されている。かんたんに言えば、プロファイリングとは、ありとあらゆる人間を属性別の統計分布の集合体と見ることだ。たとえば、白人やアジア系であれば、犯罪者である確率は1~2%、黒人やヒスパニックであればその確率はおそらく5~30%に激増するといったことが叩きこまれる。

「デザインアウトクライム」_

 だから、構内で挙動不審の人物を見かけた場合、ふつうに英米語を話す白人やアジア系であれば、「どちらへ?」と聞いて「ちょっと知人のところへ」程度の答えしか返ってこなくても放置していい。見かけだけで黒人と分かれば、有無を言わさず敷地外まで連行しても差し支えない。外見は白人でも声をかけた返事にスペイン語風ななまりがあれば、「お知り合いの方を、この場から電話でお呼び出しいただけますか」といった突っこんだ応対をすべきだ。昨今は、アラブ系でイスラム教徒らしき人相風体だったりすれば、黒人以上にきびしい応対が求められる。

 そういう意味では、つい最近フロリダ州オーランドのゲイクラブで起きた銃撃大量殺人事件の犯人が、両親がアフガニスタンからアメリカに移住した移民第2世代のイスラム教徒の若い男性で、最大手級の民間警備会社の現職職員だったという報道は信じられない気がする。プロファイリングはお手のものの警備会社が、求職者に対するスクリーニングの段階で銃撃によって大量殺人を犯しそうな人間をはねることができないようでは、とうてい企業として成り立たないはずだからだ。

 ナチス独裁下のドイツでは、ユダヤ人は外出時に胸のよく見える位置に「ダビデの六角星(上下逆の正三角形が交差したかたち)」のサインを縫い付けておくように命令されていた。「ユダヤ人は劣等で邪悪な民族で、アーリア系ドイツ人に害毒をおよぼす」という言説と、この行動のあいだには首尾一貫性がある。少なくとも「不当表示」ではない。だが、アメリカの犯罪抑止技術としてのプロファイリングは、「自由と平等は不可侵の人権」というご立派な言説はそのまま温存しながら開発され、ビッグデータの累積とともにどんどん進歩しているのだ。どちらがより悪質なのか、深く考えさせられる話だ。

 もうひとつ考えさせられることがある。大陸ヨーロッパや日本では、統制社会・統制経済への傾斜は、ナチズム、ファシズム、天皇制国家社会主義、ケインズ派経済学といった予言者や救世主気取りの集団が音頭を取った熱狂的な大衆運動が高揚した結果として起きることが多い。だが、アメリカではこうした傾向が、そのほうが儲かる利権集団の意のままに淡々とビジネスライクに進む。これまた、どちらがより悪質なのか、真剣に考えてみる価値のある問題だ。