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第4回 自国語で最先端の科学技術を考えることができる幸せ

2016年6月3日

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 2015年1月に刊行された松尾義之著『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)は、たった3ヵ月のうちに第3刷と、地味な企画の多い選書・叢書のたぐいでは異例の売れ行きとなっている。読んでみると、意外な事実に驚きの連続で、これは人にも勧めたくなる本だと実感する。

英語国民以外で先端科学技術を自国語で考られるのは、日本人だけ

 著者である科学ジャーナリストの松尾義之は、本書の執筆意図を「はじめに」で以下のように高らかに宣言している。

 過去1500年以上にわたり、私たち日本人は、最初は中国文化に始まり、蘭学、そして近代西欧文明と、それまで自分たちが持っていなかった新しい知識や概念や文化を積極的に取り入れてきた。言葉が違うのだから、そこには必ず翻訳という行為が存在した。その際、単なる言葉の移し替えでは済まないことも多々あったであろう。そこで、新しい言葉を創造して、概念知識や思想哲学まで、きちんと吸収したのだ。だからこそ、例えば今日の科学において、自由に新しい成果を生み出す言語環境が整ったのだ。……

 だからいま、こう考えている。日本語で科学ができるという当たり前でない現実(原文、傍点)に深く感謝すること、この歴史的事実に正面から向き合ってきちんと評価し大切に伝統を保持していくこと、それが日本語で科学することの意義であり、責務である。それは日本の科学や技術を発展させる原動力となり、世界中の人々が望んでいることにつながっていくはずだ、と。(同書、15頁)

 あまり学術研究の現場を経験していらっしゃらない方は、日本人が日本語で科学ができるのは当たり前どころか、奇跡に近いとさえ言いたそうな表現に面食らうかもしれない。だが、現代社会では日本人以外の自然科学者が研究の最先端を担おうとしたら、英語で考え、英語で論文を書くしかないという状態になっているのだ。ただ、それでは「世界の趨勢に取り残された」日本の自然科学者たちは、自分の書いた論文が英語ではないというだけの理由であまり引用されることもなく、日陰の身にとどまっているかというと、これが正反対なのだから世の中はおもしろい。

 たしかに、ほぼ同じ程度の実績をあげた諸外国の科学者と比べると、自分の論文を引用される回数は少ないだろう。だが、今までは解き明かされていなかった真理をどこまで追求できたかで勝負が決まる自然科学は、人気投票の世界ではない。論文引用数が少なくても、画期的な業績はきちんと評価される。

 そして、世界中のほとんどの国々で自然科学者たちは初めから英語で考え、論文を書いている中で、日本語で考え、日本語で論文を書く日本人科学者たちは英語的な発想では目の届かないところですばらしい研究を積み重ねている。だからこそ、ノーベル賞でも「平和賞」とか「経済学賞」のように客観的な基準の存在しない分野ではなく、「物理学賞」「化学賞」「生物・医学賞」の3分野では、英語国民をのぞけば圧倒的に多くの受賞者がいるし、最近ではほぼ毎年のように受賞者を出しているのだ。

 英語では目の届かない分野というと、何か非常に狭いニッチ狙いのように感じられるかもしれない。だが、そうではない。例えば、ダーウィン自身は決してそんな意図はもっていなかったのに、植民地的社会でありつづけるアメリカで「優勝劣敗の理論」に歪曲されてしまった進化論を平和共存の理論に一変させた今西錦司の「棲み分け理論」を始めとして、「くりこみ群」、「すだれコリメーター」といったやまとことばで表現される着想は、日本独自のものだろうと想像がついていた。どれも、決して狭いニッチではなく広々とした知的フロンティアを形成している。だが、当然かなり昔から定着していた漢語だろうし、ヨーロッパ系言語にも対応することばがあるにちがいないと思いこんでいた「物性」ということばでさえも、日本人が独創したものだという事実には驚いた。

 東京大学には物性研究所という素晴らしい研究機関があるし、日本の物理学には物性論という明確なジャンルも存在している。……ところが「外国語にはこれに当たる適切な言葉はない」と『理化学辞典』(岩波書店)にも書いてあるのだ。(同書、40~41頁)

 おそらく、「新しい知識や概念や文化を積極的に取り入れてきた。言葉が違うのだから、そこには必ず翻訳という行為が存在した」という発想自体が日本独自のものなのではないだろうか。不幸にして他国の植民地とされてしまった国々では、高度な知的営為は宗主国のことばでしかできないことは自明の前提とされていた。

 そして、何千年も前にすばらしく完成された表意文字体系である漢字を発明していた中国でさえ、外国語の概念を自国語に翻訳する(翻の訓読みは「ひるがえる」なので、文字どおり飛んだり跳ねたりして意味を伝える)という発想はなかったように思える。ジオメトリーを幾何としたのも、ケミストリーを舎密としたのも、音から連想した当て字だった。日本では、幾何はたまたま「幾らなのか、何なのか」という漢字の持つ意味が適合しているからそのまま受け入れて使っているが、舎密は内容をうまく表していないので化学と訳すようになった。そう考えてみると、翻訳ということば自体が、ほんものの漢語なのか、気になってくる。ひょっとしたら、科学、哲学、郵便、分配、階級、人民と同様の和製漢語なのではないだろうか。

 日本人は中国から漢字を受け入れた当初から、まったく文法構造の違う中国語の文章を理解するために、レ点ともいう返り点や一、二、三の漢数字を原文のあいだに割りこませて、文字どおり七転八倒しながら、読みこなしていた。そこから生まれた大発明である漢字かな混じり文は、おそらく世界中でいちばん品詞分け、つまりひとつながりの文章の中で特定のことばがどういう機能を果たしているかを見分けやすい言語表記法になっている。漢字ばかりなら名詞、漢字とかなが混じっていれば、だいたい動詞、形容詞、副詞、形容動詞だ。かなばかり1~2文字なら助詞と、まさに字面を見ただけで分かってしまうのだ。

 朝鮮半島でも漢字とハングルという二本立ての表記法が発達したが、李氏朝鮮時代も末期にいたるまで、漢字を使うのは両班(貴族)、ハングルを使うのは平民という階級的な区別が続いていた。漢字ハングル混じり文が発達したのは、明治日本の影響を受けた1880年代以降のことだったらしい。日本では、漢字の使用頻度に差はあっても、貴族・武士から平民にいたるまで同じように文章の構造を把握できる表記法が発達していたことが、江戸時代中期からの初等教育の驚異的な普及と、明治期以降も高学歴があまり特権化しない大衆社会を築いてきた一因だろう。

「日本語の科学」画像

 この事実の含蓄は、非常に多岐にわたっている。たとえば、韻を踏むためには品詞分けに敏感でなければ務まらない詩人は、欧米では高度に知的な職業だ。だが、品詞分けは初等教育さえ受ければだれにでもできる日本では、詩人は受けた正規教育の質とは無縁に大衆の情感を素で汲みとることのできる人に適した仕事だ。また、日本では大学は文科系で卒業したのにたまたま研究開発の部署に配属されたら、適性があって大活躍するというようなことがけっこう多い。欧米では、皆無とは言えないがめったにないことだろう。

 おそらく日本は、必要とあらば科学技術研究の先端に携わることのできる人材の総人口に対する比率が、世界でいちばん高い国ではないだろうか。日本人がふつうに接する欧米人は知識人が圧倒的に多いので、日本では欧米人といえば複雑な概念を構造的に把握する能力が高い人たちばかりだと思われている。ところが、欧米で何年か暮らしてみると、大衆のあいだには複雑な概念を構造的に把握する能力を持つ人が、かわいそうなほど少ないことが分かる。これは、日本国民が持つ最大級の無形資産だろう。

 アメリカナイズされた経済学は、アメリカナイズされた自然科学にも劣る

 ここで私の視点をちょっと言わせてもらおう。私は、当事者たちは「社会科学の女王」などと粋がっているが、実際にはとうてい科学と言える水準の研究をしているわけではない経済学と、あとは歴史学の世界しか知らない。そして、歴史学者たちは自分の研究はあくまでも学芸(arts)としての「人文」であって、科学(science)ではないことを誇りにしていた。そして、科学を名乗りさえすれば、何かしら高級なことをしているような風潮を警戒し、軽蔑していた。

 どういうわけか、ネイティブスピーカーでもむずかしいと言われるダブルメジャー(二学同時専攻)でジョンズ・ホプキンス大学の大学院にもぐりこんでしまった当時をふり返ると、経済学部の授業やゼミで習った計量モデルは、流行がすたれてしまえば、なんの価値も意義も見いだせないものが多かった。一方、読まなければゼミの討論に参加できない「お客さん」になってしまうので、眠い目をこすりながらしぶしぶ読んだ歴史学の名著、大著は30年以上経った今も、自分の思考様式の血となり、肉となっている。

 そういう立場で見ると、現代社会では経済学でさえ大学院レベルの講義も論文も初めからから英語という世界になりつつあることが不安でしかたがない。他にも社会科学を自称している学問分野はあるが、経済学ほど科学を名乗ることが危険で不似合な領域も少ないのではないだろうか。現代の経済学というのは、かんたんに言えば中世の錬金術師同士、あるいは占星術師同士の論戦のようなもので、互いに妄想をぶつけ合って、相手の議論のボロをついて言い負かしたほうが勝ちという世界だ。本書はこの経済学の世界について、全編でたった一ヵ所だけ具体的に言及している。日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士の功績について触れたくだりだ。

 湯川博士は、「その新粒子はボーズ統計に従う粒子であって、プラスあるいはマイナスの電荷を持っていて、質量は電子の200倍程度であり……」と論文で詳しく書いている。しかも、ではなぜ、この新しい仮想粒子がそれまでの実験で見つかっていないのか、その理由まできちんと考察されている。このような、しっかりとした根拠のある見通しのことを、理論物理学では予言というわけだ。怪しげなエコノミストの景気予想とは、雲泥の差がある。(同書、114頁)

 だが、これは「怪しげなエコノミスト」だけのことではない。由緒正しい大学で高名な先達の薫陶を受け、日夜研鑽に励んでいる経済学者でも、理論物理学者が言うような予言は絶対にできないのだ。経済学というのは、数百万人、数千万人の人間が思い思いにかかわっている社会現象を丸ごととらえる変数の関係を考察する学問だ。その中から景気であれ、経済成長率であれ、株価であれ、金利であれ、自分が考察したい変数だけを取り出してきて実験室でデータを解析し、ほかの学者が同じ変数を同じ手順で検証したら、同じ結果が出たから正しいとか、違う結果が出たからまちがっているとかは、原理的に言えない分野なのだ。

 最近は、アメリカの影響だろうが世界中自然科学でさえも、学術誌に掲載された論文の本数と、引用回数を競うだけの「実績主義」が蔓延しているらしい。その結果として、シミュレーションをしただけというつまらない論文が増えているようだ。つまり、他人が作ったモデルに別の標本サンプルのデータをぶちこんでみたら、こういう結果が出ましたとか、ああいう結果が出ましたと言うだけの論文だ。だが、松尾義之のように自然科学の論文を評価する目利きのあいだでは、シミュレーションばかりを精緻化しただけの論文はつまらないという定説があるだけマシだ。松尾は、具体的には「地球温暖化」というたんなる仮説をごてごて緻密な計算で飾り立てた論文について、次のような批判を展開している。

  細かな計算は可能になる。ところが、一番肝心な出発点のところが、かなりいい加減で、決定的に不明確なのだ。わからないことが山ほど残っているのである。これではいくら信じろと言われても疑い深い私には無理である。……

 ここで間違えないでほしいのは、出発点がウソであっても、シミュレーションのところは、科学的にほぼ正しいということである。だから、シミュレーション計算を担当する科学者は、その社会的影響などあまり考えずに、平気で結果を発表することができる。「そもそも」の部分は自分の担当ではないことも大きいだろう。しかし、理屈はあっていても、これはひどい話だと思うし、だから、シミュレーションが科学をつまらなくしているのだとも思う。(同書、223~224頁)

 計量経済学という分野は、まるごとつまらないシミュレーションで成り立っているようなものだ。松尾の批判は全部当てはまる。おまけに、シミュレーションをしている当人たちは「社会的影響などあまり考えない」どころか、「オレのシミュレーションどおりに社会を動かしてやろう」という野心満々なのだから、始末におえない。よくまあ、あれほどあいまいな根拠の上に形式だけは整ったモデルを組み上げておいて、何度大はずれの予測をしても、自分の妄想どおりに社会は動くはずだという信念だけは持続できるものだとは感心するが。

 突然話は変わるが、サッカーでシミュレーションというと、攻撃側の選手がとくにペナルティエリア内でディフェンス側に妨害されたわけでもないのに、ペナルティキック欲しさに倒れこむことを言う。審判に見つかったら、最低でも警告だし、悪質なら一発退場にもなる重大な反則行為だ。科学の世界でも、シミュレーションしかしていない論文を何本か出した学者には警告を発し、それでも続けたら何年か学術誌への論文掲載を禁ずるというようなルールをつくってはどうだろうか。そうなると、計量経済学の分野はほぼ消滅するだろうが、もっと有意義な分野に学術研究費が回るだけで、マイナスの影響はほとんどないだろう。

日本人が日本語で考えることの有利さは、学術研究にとどまらない

――『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』

 榎本博明著『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』(2014年、朝日新書)では、日本人はどんな分野のことでも日本語で考え、日本語で話し、日本語で書けるという利点が、もっと多面的に考察されている。最大の論旨は、ヨーロッパ系、そしておそらくは世界中のほかの地域の言語の大部分も、自分は他人とこう違うのだという自己主張の論理で成り立っているのに対し、日本語は論理性より共感能力を尊ぶ言語体系だという認識だ。そして、この特性に対する「日本の平和な社会は、このような理屈より気持ちを重んじる精神風土によって支えられている」(同書、127頁)というもろ手を挙げての肯定、賛美が全編に横溢している。

 具体的には、公式の場で謝ることの意味が、日本と諸外国では正反対だという事例が取り上げられている。諸外国、とくにアメリカで企業の責任ある立場の人間が公式に謝罪したら、それはどんなに巨額の賠償を要求されても応じなければいけない全面的な敗北宣言だ。日本では、とりあえず謝っておくこと、そして謝り方に誠意があることがその後の賠償請求などを封ずるという正反対の機能を果たす。原文を引用すれば、以下のとおりだ。

 そもそも自己主張を嫌い、場の雰囲気を良好に保つことを最優先する日本社会では、何かトラブルが生じたときは、言い訳をして自分の正当性を主張するよりも、「自分が悪い」と謝罪しなければならない。それによって事態が丸く収まる。

 こちらが謝れば、向こうはそれ以上責めることがしにくい。むしろ相手側も、「こちらも悪かった」と言わざるをえない空気が醸し出され、こじれかけていた場の雰囲気が良くなる。(同書、43頁)

 「ディベートが苦手」画像(修正)

 最近は、うわべだけの欧米的な論理性にあこがれて、こういう落としどころを尊重する日本人のあり方が、卑屈で本音を見せない陰険な社会を形成していると考える知識人が増えているのではないだろうか。だが、「公式の場で謝罪をすれば負け」というアメリカ社会では、あれほど大勢の弁護士が、鵜の目鷹の目で大企業の瑕疵を探し、大勢の原告に集団訴訟を起こさせて巨額の成功報酬を得ている。こちらのほうがはるかに陰険な社会だということに気づかないのだろうか。

 ちょうどバブルが崩壊したころに、「日本経済活性化のために、弁護士数の対人口比率をアメリカ並みに上げれば、巨額賠償を恐れる企業の品質改善努力が進み、GDP成長率も上がる」と真顔で主張した痴呆的な経済学者がいた。そして、司法試験合格者を大量に増やした結果は、弁護士資格を持っているが食べていけない高学歴実質失業者の続出だった。

 今、ほとんど同じ顔ぶれの懲りない経済学者たちが、「経済のグローバル化に対応するために、小学校や幼稚園から英会話教育をして、次世代の日本人は日英バイリンガルがふつうという状態にしよう」などと提案している。「どうせどっぷり日本語漬けの生活をしている日本の子どもたちが、ネイティブスピーカー同様に、あるいはそれより流暢に英語を話せるわけがない。だから、主張は愚劣だが、実害は少ないだろう」などとタカをくくってはいけない。

 何十万人という子どもたちに本気で早期から英会話教育をすれば、中にはほんとうに英語を流暢に話す子も出てきてしまうだろう。それは、たんに英語がうまいということにはとどまらない。英語国民のように自己主張をする子どもたちが出てくるということだ。

 もともと世界中で、バイリンガルの国というのは、本来であれば単一言語で国民が暮らせるほうが望ましいが、さまざまな歴史的な事情によって、必要に迫られてバイリンガル状態を受け入れざるを得ない国ばかりだ。カナダやベルギーはうまく行っているほうだろう。それでも、カナダでフランス語圏に生まれ育った人たちがやはり不利な立場に置かれていることは、否定できない。また、ベルギーでは元がゲルマン系のオランダ語に近いことばを話す人たちと、元がラテン系のフランス語に近いことばを話す人たちのあいだには深刻な対立がある。

 もともとは単一言語だったのに、人工的にバイリンガルにした唯一の国はアメリカだ。ケネディ・ジョンソン時代の「偉大な社会」計画のもと、「スペイン語のほうが自然にしゃべれるのに英語を話すことを強要される人たちがかわいそうだ」という名目で始められた、スペイン語とのバイリンガル化がもたらした変化はなんだっただろうか。それまでは黒人だけだった半永久的に下積み階級で生きることを宿命づけられたグループが、黒人とヒスパニック系との2大グループに増えたことだけだった。

 日本が、人工的に日英バイリンガルの国になったらどうなるだろうか。幼いころから英会話教育を受けても結局ものにならない人たちは、「日本語しかできない人間」という評価を受けることになる。そして、英語国民並みに自己主張をする英語教育に順応した連中に対して、以下のように接するだろう。

 そこで、ずうずうしいくらいに自己主張する者を疎(うと)ましく思いながらも、対抗して見苦しい自己主張合戦をする気にもなれず、損な役回りに甘んじる者も出てくる。非常に不公平なことだが、こうした構図のもとでは、潔い者はずうずうしい者に支配されることになる。(同書、87頁)

 日本でずうずうしく自己主張をする人間が出世するのは、自己主張が強まるにつれて仕事をする能力も高まるからではない。他人の手柄まで横取りしておいて、尻拭い、泥かぶりは他人に押しつけているのに、そこまで自己主張をしようとしない人たちがそれを受け入れてやっているからなのだ。日本国民のバイリンガル化は、ほぼ確実に英語のできる支配階級と、日本語しかできない下積み階級に日本人を分断するだろう。