[ 連載 ]

読みたいから書く!

第2回 一見大衆賛美に見える「審美眼のエリート主義」

2016年2月25日

 

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 バーナード・ルドフスキーは「わたしは、構造計算もできるのに、ちゃんと歴史や文化文明の話にも関心があるんですよ」という文・理両道を気取る建築家たちに絶大な人気があるらしい。それは、原著の出版だけでなく邦訳が出たのもかなり昔のことになる『建築家なしの建築』、『驚異の工匠たち』、そして今回俎上に乗せる『人間のための街路』といった著作がロングセラーとして今でも新刊書店の棚に陳列されていることでも分かる。とくに『建築家なしの建築』は、建築家が「わたしは、自分たちの稼業がけっして人類の存続に必要不可欠ではないことをわきまえています」と主張する免罪符のような存在になっていて、著名建築家が選ぶ5冊の本とか10冊の本とかのアンケートでひんぱんに上位にランクされているそうだ。

「城壁都市」の礼賛者、ルドフスキー

 建築文明論とでも呼ぶべきマイナーな分野に特化したもの書きとして、この長寿人気は偉業と呼ぶべきかもしれない。だが、今回改めて『人間のための街路』(平良敬一・岡野一宇訳、1973年、鹿島出版会)を精読して痛感したのは、これは著者自身が付けたのか、優れた編集者に恵まれていたのか、どちらにしてもネーミングの勝利であって、中身はタイトルが想像させるような反エリート主義、反技術万能主義、反操作主義の書ではなかったという失望感だった。

 昔から本棚には置いてあったし、いつか読みかけて落っこちた本だということは記憶していたのだが、いつ、なぜ途中棄権となって完走できなかったのかは覚えていなかった。今回読み返してみて、翻訳があまりにもひどくてついていけなかったのだと思い出した。

 たとえば、98頁では第二次世界大戦前は世界中でも有数の魅力を誇ったミラノが、戦災からの拙速な復興を図ったために、いかに悲惨な状態となったかを描いいている。その文脈の中に、なんとも収まりの悪い次のような文章がまぎれこんでいる。

 モッタのバーは、かつてはヨーロッパ中でもっとも優雅で、親しみやすい逢引きの場所であったが、それも昔の数倍の広さに拡張された。このうえなく食欲をそそられる過ぎし時代のひなびた食物のかわりに、アイス・クリームや固形食が、自動洗濯機と同じように魅惑的な機械で売られている。

  この訳文で、ルドフスキーがいったい、戦後のミラノをけなしているのか、褒めているのか、日本の読者は分かるのだろうか。もちろん、ウィーン生まれのオーストリア人といっても、アメリカ暮らしが長かった人だから、皮肉や諧謔もイギリス人やフランス人ほどひねりを利かせたものではない。ここで言っているのは、アイスクリームや作り置きの食べものを客に差し出す装置の魅力たるや、自動洗濯機並みの無味乾燥な水準でしかないと言っているのだ。

 あるいは182頁に掲載された、17世紀初頭のオールド・ロンドン・ブリッジ周辺の風景画の説明には、こういう訳が添えてある。「右端のブリッジゲイトの上に、巨大な棒付きキャンディーのように見えるのは、有名無名の人びとを記念するための人間の頭部の永久展示である。」

 これが「有名無名の犯罪者の記憶を不滅にとどめるために槍の穂先に突きたてた、斬首刑に処された囚人たちの生首である」という意味だと分かる日本人が何人いるだろうか。この迷訳が、ほんとうに訳者たちは原文の意味が分からずに単語の置き換え作業をしただけの誤訳・悪訳のたぐいであれば、問題はそれほど深刻ではない。だが、ヨーロッパ諸都市がたとえ中世も末期にさしかかった17世紀初頭のロンドンでさえ、どんなに血なまぐさいところだったか、そしてルドフスキーが、その城壁に囲まれた閉鎖的な空間としてのヨーロッパ都市を、いかに口を極めて賛美していたかということを正直に伝えたのでは日本の読者が引くだろうとの配慮から意図的にぼかした表現だったということになると、これはかなり重大な歪曲だ。

  実際にルドフスキーは、エリート都市民と郊外や農民とを物理的に隔離し、都市外の民が侵入することをときには斬首刑で脅してでも排除するための装置だった都市城壁の消滅を以下のように嘆いている。

 レオン・バティスタ・アルベルティは、この町(マルティーナ・フランカ――引用者注)のことを、豊かな牧草地とうっそうたる森に囲まれた『城』だと言っている。四世紀を経た現在では、森はなくなり、そして城らしい雰囲気をつくっていたのであろう都市壁や二四の塔もなくなってしまっている。マルティ―ナ(……)は昔の三倍の大きさになった。町の新しい地区の建築様式は、現在のカラチやカサブランカのそれ――家々は、まるで隊列を組んだ兵士のように一様な形をして整然と並んでいるが、表情や仕種というものがない――と区別がつかず、いわば“現代的陳腐性”とでも名付けうるものだ(同書、232頁)

  中世イタリア都市の末裔ともあろうものが、現代カラチやカサブランカ同様の街並みに堕してしまったという、露骨な序列意識には辟易する。だが、ルドフスキーが理想とする都市のすがたは、一見しただけだと筋金入りの自由放任主義者であるジェイン・ジェイコブズの都市計画全面否定論によく似ている。たとえば、城壁に囲まれていたころからの街区の迷路のような街並みを評して「そんな町がもしあるとするならば、この町は“非計画的”な町といったところだ」(238頁)と絶賛している。

 だが、ルドフスキーの賛美する非計画性は、だれも他人の行動を操作しようとせず、大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性ではない。当人はそんなものがこの世にあり得るとは思っていないし、あったら自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられないような猥雑な街路になるだろうと思っている。

 整然と隊伍を組んだ兵士の行進は美的水準が低いがゆえに劣位に置かれ、次の角を曲がったらどんな風景が開けるのか、あるいはたんに壁に突き当たるだけなのか分からない中世城塞都市そのままの街区は、美的水準が高いがゆえに優位に置かれている。そして、その美的水準を判断するのは、自分のように優れた審美眼を持ったエリートだというのだ。中世ヨーロッパ都市の城壁や尖塔がどれだけ多くの郊外・農村住民からのえげつない収奪によって建てられたものかなどは、まったく考慮の埒外なのだ。

「都市を計画する」ことの犯罪性

 その底流にはまた、アメリカ暮らしが長かったための自動車に対する敗北主義があったという情状も酌量してやらなければ、公平ではないかもしれない。ルドフスキーは、自動車と歩行者が道路占有権を争ったら、自動車が勝つのは自明の理だと思っている。だからこそ、中世都市の城壁は極力保存し、「不幸にも」城壁のなかった都市は、車止めのような不細工な工夫をしてでも、都心部へのクルマの侵入を防ぐべきだと主張している。

 新宿駅西口と西新宿超高層街区とのあいだは、だいたいにおいて片側2車線の道路となっている。だが、ここには今も安売り店や大衆的な呑み屋や飯屋がひしめいていて、人間が堂々と道のまん中を歩き、自動車はおそるおそる端のほうを徐行している。結局、道路をだれが占有するかは力関係の問題であり、歩行者が強ければどんなに広い道でも歩行者優先だし、クルマが強ければどんなに細い道でも自動車優先になってしまうのだ。アメリカ人のほとんどは、この単純な真理を見抜けていない。そして、全米の都市という都市がどんどんクルマが通り抜けるだけのための建物の集積になっていく現状を、車止めや迷路のように錯綜した道路計画やスロープをわざと階段に変えるといった「技術的解決策」で緩和しようというムダな努力を続けている。

 都市を人為的かつ計画的につくることができるとか、すでに形成された都市を計画によってつくり変えることができるという発想は、人類社会にとってアルコール中毒やニコチン中毒とは比較にならないほど大きな被害をもたらした幻想だった。病的なタバコ撲滅論者の「二次被害」「三次被害」の強調にもかかわらず、タバコや酒の害はほとんどたしなむ当人に及ぶだけだ。ところが、都市を計画的に改造することの被害は、住民全員に及ぶ。ましてや、自分の審美眼の高さに異常な自信を持った人間が「整然と隊伍を組んだ兵士の行列のような街並みは風情がないから」というような理由で、既成市街地を「趣のある街並み」に改造したりすれば、利便性の喪失による経済的被害は想像を絶するものがある。審美眼エリートによって整然たる街並みを風情ある街並みに改造するという、人為的な「非計画性」の押し付けは御免こうむりたい。

 ジェイン・ジェイコブズが主張する「多重機能街区からなる都市再生の勧め」のすばらしさは、こういう愚劣な建物いじりをしないでも、達成可能だというところにある。たとえ大きなブロックの街区で自動車の通りやすい幅広の道路が縦横に通っているような劣悪な環境でさえも、そこで生活する人々が住むところ、働くところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させれば、暮らしやすい街は再生するのだ。

 ただ、それが高尚で繊細な美意識を持つ人間のおめがねにかなうかということになると、まず無理だろう。多くの機能が複合した街区では、ひとつひとつの建物も、美意識よりは有用性に支配された設計になるし、ましてやだれが計画したわけでもなく自然にそうなってしまった街区全体となると、輪郭さえ不鮮明な灰色の集積ということになる。ただ、人はそこが何をするにも便利なところだからこそ、そこに集まっていくのだ。

本物の「反都市計画」主義者――ジェイン・ジェイコブズ

 ジェイン・ジェイコブズは美意識のエリート主義者ルドフスキーとは違って、ほんものの大衆の自発性を尊重した反都市計画主義者だった。黒川紀章訳で1977年に抄訳版として刊行された彼女の主著『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会SD選書)は、残念ながら誤訳・悪訳が多かったが、ジェイコブズが都市計画にかんするあれやこれやの方法論を批判しているのではなく、都市計画一般に反対であることは伝わる内容だった。

 アメリカの死と生 2010年に山形浩生訳で出版された完訳版でも、以下に引用するような断片からはジェイコブズの意図するところがどこにあるかは明白だろう。

 たとえば、原文でもカッコ内にくくられてはいるが「(都市計画という疑似科学は、実証的な失敗を繰り返して実証的な成功を無視するというこだわりの点で、ほとんど神経症じみています)」(2010年完訳版、鹿島出版会、210頁)という文章がある。

 あるいは、

都市代用品の規格化された独占パッケージが『計画型ショッピング』としてまかり通ることになるのです。
 独占計画はこうした本質的に非効率で停滞した、一気につくる仕組みを、経営的には成功に導くことができます。でもそれは、都市の多様性に匹敵するものを魔法のようにつくり出すことはできません。また、都市における年代混成で本質的に多様なオーバーヘッドの持つ、本質的な効率性の代わりにもならないのです。(同、220頁)

 ジェイコブズにとって、唯一許容しうる計画は、梅棹忠夫が「漂流の美学」という小論の中で日本文明の独自性として提唱した「修正自在な『漂流』の過程」(『発展する地域 衰退する地域』ジェイン・ジェイコブズ著、中村達也訳、2012年、ちくま学芸文庫、357頁)としての「計画」、計画と呼ぶのが自己矛盾であるような計画だけだった。ジェイコブズの提言は、「どこを切り取って取り入れれば、もっと人間的な都市計画を策定することができるか」というような技術的で折衷的な解決策に取りこまれることを拒否する孤高の思想だ。

 そして、彼女の「アメリカ最大の世帯は、刑務所に同居する数千人、数万人の囚人たちになるだろう」という暗い予言も、「クルマ社会化によって人間が歩いて行き来する習慣を失った軍事帝国によって世界が支配され、世界中の都市がアメリカ化してしまえば、人類は都市が維持可能な社会装置だったという記憶さえも失ってしまうだろう」いうもっと暗澹たる未来図も、ほぼ予測どおりに実現してしまう危機が迫っている。それがジェイコブズの遺作でもあり、アメリカ国民のみならず、全世界の人びとへの遺言ともなった『壊れゆくアメリカ』(中谷和男訳、2008年、日経BP社)の論旨だった。

公衆便所はなぜ壊される?

 そういう絶望的な環境に対するアンチテーゼとして、ルドフスキーの審美眼エリート主義による「人間のための街路」を復興しようという提言は、いかにも軽く、弱い。ただ、今回初めて通読してみて、途中で落っこちたところの先には、かなり有益な観察も散在していることを発見した。たとえば、アメリカの大都市にある公衆便所がほとんど使用不能だということは、よく知られた事実だ。今も昔も、この惨状は欲求不満の若者たちによる「バンダリズム」――破壊のための破壊、破壊行為そのものに快楽を感じること――の犠牲だという議論がまかりとおっている。

 だが、ルドフスキーはこの定説に以下のような疑問を提起する。アメリカの都市にも19世紀初めには馬車を曳く馬用に給水場が用意されていたが、その揚水器はほとんど使用不能状態で放置されていたらしい。この事実を立証する史料を持ち出して、こう議論しているのだ。

 市の報告書は言う。「誰ひとりとして、保健所がこうした給水場を監督することを期待していたとは思われぬ。」無料の飲み物との競争を快く思わぬ酒場の主人たちが、揚水器を常に使えぬ状態にしておいたのだ。その徹底した破壊ぶりからして、それが子供たちの仕業でないことは明らかであった。(『人間のための街路』279頁)

 ようするに、20~21世紀の暴力化がいちじるしい「若者たち」のバンダリズムの結果とされている悲惨な公衆便所の実情も、真犯人は違うという主張だ。「公共設備がなければカネを払って用を足しに飲食、買いものに来る客に無料で生理的要求を満たす設備を提供するのは、地場商店に対する営業妨害であって、そんな不届きな施設は半永久的に使用不能状態にしておいてかまわない」という「倫理基準」が19世紀初頭からアメリカにはあったというのだ。

 考えてみれば、公衆便所を利用できなくさせるための破壊行為は、それ自体としては楽しさも、華やかさもまったくなさそうな地味な作業だ。そして、全米ほとんどの都市で軒並み公衆便所が慢性的に使用不能状態に陥っているという事実には、気まぐれな若者たちの破壊行為とは思えない首尾一貫性がある。ほぼ確実に背後に地元の商店街の意向が存在していることを想起させる、徹底的かつ組織的な破壊行為なのだ。このみみっちい利権主義が原著の出版された1969年には満面開花していたし、その淵源は遠く19世紀前半にさかのぼることを教えてくれたという点で、著者の観察眼の鋭さには敬服する。

 さて、ルドフスキーの審美眼エリート主義にはなるべく依拠せずに、主としてジェイン・ジェイコブズが唱えた理想的な街路の特徴をまとめてみよう。

 っけらかんと

心地良く

のいい距離で

き来して

のをやりとり

とに集まる

  願わくば、人を集める「こと」が、いい芝居、感動的なコンサート、安くてうまい露店や洒脱な大道芸であって、押し寄せる志願兵をさばく臨時受付所でなからんことを。

 *「18日に掲載した内容に、一部、不正確な内容がありました。その関連個所を削除し、文脈を補うために補足しました。山形浩生氏、読者の皆様にお詫び申し上げます。 増田悦佐」