[ 連載 ]

社会科学の制度論的転回

第2回 主体の「合理性」とはなにか ――新古典派経済学の「人間観」

2015年8月3日

syakaigaku201507

 前回の末尾で,なぜ人間観と社会観にこだわるのかということについて述べたが,もう少しこのことについて敷衍しておこう.たとえば「20世紀社会科学の人間観」というような言葉で,私が意味しているのは,社会科学がその理論の中で想定している人間観のことである.もちろんそれは,現実のありのままの人間像を捉えるものではなく,「フィクション」である.しかし,われわれがどのような人間観を持っているのかは重要な意味を持つと私は考えている.次の言葉は,異才の科学ジャーナリストであるマット・リドレーによるものだが,正鵠を射ている.  

「人間の本性が理解できたと思った人はたいてい,すぐにその説明を絶対化して,完璧な社会のデザインに乗り出す.・・・しかし,そのようなユートピア的空想からは,どんなユートピアも地獄だという教訓が得られるにすぎない.人間の本性にかんする偏狭な見方をもとに社会をデザインしようとすると,机上であれ実地であれ,なんともひどい社会しかできない」(リドレー 2004, p.93)

   たとえば,人間の本質がその理性・合理性にあると捉えた18世紀の啓蒙主義の一部の思想家は,フランス革命の過程で無神論を徹底化させ,「人間理性」を信仰の対象にまでしてしまった.ロベスピエールは神の存在こそ否定しなかったものの,キリスト教にとって代わる革命的宗教が必要だと考えた.この動きは,1794年にロベスピエールによって挙行された「最高存在の祭典」において絶頂に達した.
  このように,人間は意外にも自らが持つ人間観や社会観から大きな影響を受けて,今から見ると的外れにも思われるようなさまざまな活動を展開してきた.われわれがどのような人間観,社会観を持つのかは,われわれがどのような社会を構想するのかに大きく影響するのである.本連載でも,後に再びこのテーマに立ち戻ることになる. 
 今回から数回を使って,まず経済学を中心として,20世紀の社会科学を支えてきた人間観と社会観が具体的にどのようなものであったのか,それがどのような意味を持っているのかについて整理しておきたい. 
 20世紀の社会科学における人間像を明確に取り出すため,最初に,いわゆる新古典派経済学の経済モデルに焦点をあてることにしよう.19世紀後半に展開された限界理論と市場均衡理論を柱として発展してきた新古典派経済理論は,20世紀において経済学の主流派の位置を占めてきた.この理論は,合理的・自律的個人という近代的人間像と整合的な人間像を基礎とするものであったばかりでなく,個々の経済主体の行動から社会全体の秩序を説明するという論理構成をとっているという意味で,高い論理的一貫性と明晰さを兼ね備えている.このため,20世紀を通じて,新古典派経済学と同等の理論的枠組みは,経済学を超えて政治学や社会学においても大きな影響力をふるってきたのであった.

合理的意思決定の構造 

 新古典派経済学では,消費者や生産者といった意思決定の最小単位を「経済主体」と呼び,それらが (一定の制約条件のもとで) 合理的に意思決定すると仮定している.そして,たとえば市場のような,考察の対象となっているメカニズムの安定的な状態を意味する「均衡」という概念を用いて,均衡状態が現実に対応するモデル上の存在物であると想定し,モデルの現実妥当性を論じるというアプローチをとってきた.このように,経済学の根幹には合理的意思決定のモデルが存在する.では,合理的に経済的意思決定を行う主体「ホモ・エコノミクス(homo economicus)」とはどのようなものだろうか.

 合理的意思決定の構造をもっとも明快にわからせてくれるのは,不確実性下の意思決定の理論であり,その中核をなしてきた期待効用理論なので,まず期待効用理論から解説しよう. 
今,不確実性が存在する状況において,ある人がいくつかの行為(action)のなかから1つを選択しようとしていると想定しよう.不確実性が存在する状況における行為はどのように捉えられるだろうか.行為は何らかの結果をもたらすが,不確実性のある状況においてはその結果は確定的な結果ではなく,いくつかの結果が確率的に生じると考えられる.そこで,行為の結果として起こりうる「結果」ないし「帰結」のすべてを集めた集合 (結果集合ないし帰結集合)を想定しよう.その集合の要素であるひとつひとつの結果を確率的に生じさせるもののことを「クジ」と呼ぶ.つまり,1つの行為を1つのクジと見立てるわけである. 
 経済主体は,可能なクジ全体の集合に対して「選好関係」を持つと考えよう.選好関係とは,クジAをクジBより好むというような「好み」のことであるが,実はそこにすでにある程度の「合理性」が仮定されている.たとえば,クジAをクジBより好み,クジBをクジCよりも好むならば,クジAをクジCよりも好むはずであるというような整合性の条件(推移性)が成立しているという意味での「合理性」である.しかし,この「合理性」と以下で説明する合理性とは異なるので注意してほしい.
 ある経済主体がクジの集合のうえに選好関係を持ち,さらにいくつかのテクニカルな数学的条件(連続性と独立性の公理)が満たされるときに成立するのが「期待効用定理」である.それが主張していることは,このような条件が成立しているときに,経済主体は (確定的な) 結果のそれぞれに対して数値で表現されるような効用 (フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用) を持ち,結果に対する確率分布を用いて計算されたその効用の数値の期待値 (期待効用) の大小によって,クジ=行為のランクづけを行っているとみなされるということである.出発点においては,経済主体はクジに対する選好を持つと想定されていたのに対して,期待効用定理の結果,経済主体は各結果に対して効用を持つことになっていることに注意してほしい. 
 たとえば火災保険に加入するべきか否か,あるいはどの程度の保険をかけるべきかという問題もこの枠組みで考えることができるのである.

 瀧澤図2-1

図2.1: 2つのクジの間での選択 
 

 火災が発生する状態としない状態という2つの状態それぞれの確率が と1-p に決まっているとする (0≦p≦1).もともとこの個人はWという資産額を持っており,火災が発生したときの損失額がLであるとすると,個人が保険に加入しない場合には,「火災が発生した場合にWLの資産額,発生しない場合に資産額W 」というクジに直面することになる.一方,事前に保険料Dを払い,火災発生時にIを受け取る保険に加入した場合には,「火災が発生した場合には資産額はWLD+I ,火災が発生しない場合の資産はWD 」というクジに直面すると考えられる.この場合,フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数を と書くとすると,両方のクジに対する期待効用は,それぞれ

pu(W-L)+(1-p) u(W)
pu(W-DL+I)+(1-p) u(WD)

として計算できる.そして,それが大きい方を人々は選択すると考えるのである.
 期待効用は結果に対する効用の期待値である.個人が結果に対して持つ効用は,結果に対する「選好」を示しており,期待値を計算する際の確率は,それぞれの結果がどのような確率で生じるのかに関する「予想」を示している.この予想を,哲学や意思決定理論では「信念(belief)」という言葉で表現する.このように期待効用理論では,個々人は「信念」と「選好」というものを持ち,それを組み合わせることによって,もっとも望ましい行為を選択していると考える.これが通常経済学で考えられている合理性の概念である.
 このように「信念」と「選好」と組み合わせることでもっとも望ましい行為を選択するという構図は,われわれ人間にとってきわめて直観的なものである.実際これは,われわれが自分や他人の選択に関して語るときに,日常的に使用している人間像である.つまり,われわれは自分や他人の行為を説明したり評価したりする際,その人格に対して,信念や選好のような心理学的構造を帰属させている.人間の行為に関するこのような日常的見方は,「素朴心理学(folk psychology)」と呼ばれてきたが,経済学が想定する合理的人間像は,確率的な表現を導入して数学的に洗練されてはいるものの,基本的には素朴心理学にのっとっているものだと考えてよい. 

合理的意思決定の哲学的基礎

 ところで,信念や選好のような心的状態は,哲学において「志向的状態(intentional state)」と呼ばれてきたものの典型例をなしている.志向的状態という言葉の背景にある「志向性(intentionality)」という概念は,もともとブレンターノという哲学者が使用した言葉で,何かについてのものであるという心的状態の持つ性質(これを”aboutness”ということがある)を意味している.意図する(インテンド)することは必ず何かを意図しているので,志向性(インテンショナリティ)を持つ状態だが,後者の方がより包括的概念である.「志向性」は独特な哲学用語であることに注意して欲しい(サール 1997).
 20世紀の言語哲学では,さらに志向性という用語を,命題をその内容として持つものに限定して使用することが多い.これはしばしば「命題的態度」と呼ばれる.たとえば「明日は晴れるだろう」という信念は,「明日は晴れる」という命題を信じるという構造をしている.選好もある命題が生じることを望むという形を基本としているので同様である.命題的態度を内容とするような,志向的状態には他にも多数ある.恐れる,望む,疑う等々.
 ちなみにここで,これまで明確に規定することなく使用してきた行為と行動という言葉の違いについても言及しておく.「行動(behavior)」というのは,それを遂行する人間の内部に原因を持つ動きであり,たとえばあくびや,膝の下を打ったときの反射運動などのように,意図的でない動きも含む概念である.これに対して「行為(action, act)」というのは,信念や選好といった志向的概念を前提にして,主体が意図的に選択しているとみなされる行動である.
 既存の経済理論に縛られずにリアルな人間行動を分析しようとする「行動経済学(behavioral economics)」に「行動」という言葉が冠されているのは,それが既存の経済学が対象としてきた「行為」のみに現象を限定しないこと,あるいはそのような枠組みを超えて人間行動を考察しようとしていることを含意しているのである.これに対して,後に伝統的経済学のアプローチを自然科学的アプローチと対照して論じるときにより詳細に述べることだが,伝統的経済学のアプローチではもっぱら「行為」を対象としてきたと考えてよい.
 人間の行動を行為として見るということは,それが合理的熟慮のうえで選択されたものと想定していると考えるのが自然であろう.これは当たり前のように聞こえるかもしれないが,異なる解釈を与えようとする人もいる.
 たとえば,人間行動理解のための社会科学の統合の必要性を主張するハーバート・ギンタスは,人間主体を「一貫した選好」を持つ「合理的行為者(rational actor)」とみなし,信念(belief),選好(preference),制約(constraint)によってモデル化する枠組みを提起している(ギンタス 2011).彼はこれを「BPCモデル」と呼ぶ.彼のBPCモデルが前述したような意思決定理論と異なる点は,伝統的経済学が「自己のみを考慮する」個人を仮定してきたのに対して,「他者をも考慮する」選好をもっていると考えるべきだと主張する点である.
 彼がBPCモデルの擁護に際して最重要視している理由は進化論的なものである.ギンタスは次のように言っている.

 「合理的主体モデルは現在の経済理論の礎であり,過去20~30年の間に生物学における動物行動のモデル化の核心となった・・・経済理論と生物理論はこのよ うにして,自然に親近感をもつに至った.経済理論の合理的モデルが依存する選択の一貫性は進化理論によってもっともらしさを与えられた.経済学が先駆けとなった最適化手法は,生物学者が人間以外の生物をモデル化する際にごく普通に応用され,拡張された.私は以下で,この事態が生じたのは,認知心理学で適用される,選択が慎重になされる(deliberative)というパラダイムとは逆に,経済学と生物学において適用される,選択が習慣的になされるというパラダイムのためであると考える.」(同書,p.347)

  彼によれば,「慎重になされる(deliberative)」選択は認知心理学の分析対象であり,これについては「モデル化はそもそも難しい」として明言を避けている.
 ギンタスの見方も理解できないわけではないが,以下で私は,信念や選好といった志向的状態を要素とした合理的意思決定の把握の仕方は,実践的熟慮による行為選択を表現しているものだと考えることにしたい.われわれ人間が言語を交換する「言語ゲーム」において,志向的状態は,推論の前提や結論として重要な役割を果たしている.このことが,人間社会の合理性を支える基盤になっているのである.本連載のテーマは「制度をつくる人間」であるが,人間が制度を形成していくうえで,どのようにして志向的状態を持つようになったのかという問題は,われわれがどのようにして合理性を獲得したのかという問題にも等しい,基本的な重要性を持っているのである.
 現在の経済学の一部には,信念や選好といった概念を捨てて,自然科学的に人間行動を説明しようとする,自然主義的アプローチがある.この観点からは,人間はこのような枠組みで考えて行為を選択しているのではなく,人間は信念と選好を用いた枠組みで単に正当化を行っているにすぎないという反論はありうる.しかし,信念や選好というカテゴリーを用いて,人間の選択を表現し理解するのは,われわれが社会的現実を整序して理解する仕方に深く関連しているのであって,それを自然主義的な観点から不要にすることはできないのである.

 道具的合理性とは

 異色の哲学者ジョセフ・ヒースは『ルールに従う』の中で,新古典派経済学で用いられてきた合理性が,ホッブズによって17世紀半ばに初めて明確に概念化された「実践的合理性の道具主義的把握(instrumental conception of practical rationality)」というものと実質的に変わらないものであると説得的に説明している.そこにおける合理性は「道具的合理性(instrumental rationality)」と呼ばれるものである.
 ホッブズによれば,実践的理性は,われわれが外部世界の状態についてより正確に把握し,行為を結果と結びつける因果的連鎖をより正確に把握しようとするところにのみ作用するものである.言い換えるならば,理性は,できる限り正確な信念を持つことを通して,あらかじめ与えられた目的をもっとも効率的に達成するための手段としての役割を果たすに過ぎない.「道具的合理性」とか「実践的合理性の道具主義的把握」という言葉が使用されているのは,このように理性が道具として使用されるからである.
 ホッブズ以来の道具的合理性という概念を,より立ち入って分析的に理解しようとするならば,その内実は「帰結主義(consequentialism)」と「選好の非認知主義(noncognitivism of preference)」からなることがわかる.
 先に述べた期待効用定理の説明においては,合理的個人は結果に対してのみ選好を持ち,行為はそれを実現するための手段としてのみ,その価値を付与されるようになっている.すなわち,行為はそれがもたらす結果に対する評価によってのみ評価され,行為それ自体に対する評価や選好は想定されていない.このような考え方が帰結主義と呼ばれるものである.
 期待効用理論それ自体の中で明示的に語られることはほとんどないが,経済学では伝統的に,(上に述べた選好の推移性のような「合理性」を別にすれば)個人が結果に対して持つ選好についてはほとんど語るべきことを持たないと考えられてきた.「趣味について語るべきことは存在しない(De gustibus non est disputandum)」のである.選好という概念は,古くから「欲求(desire)」という概念として論じられていたものを,意思決定理論が数学的に洗練したものだと考えればよい.つまり,この考え方は,欲求という言葉を用いて言い換えるならば,人間の欲求は理性的に論じることができないという考え方である.これを「選好の非認知主義」あるいは「欲求の非認知主義」というのである.
 このように,欲求の非認知主義の考え方もホッブズにまで遡ることができるが,より正確に定式化したのはヒュームである.彼によれば,理性は行為とその結果との因果関係に関する推論を行うが,それだけではいかなる行為や意志作用も生み出されえない.行為や意志作用を生み出す動機づけは,欲求を含む「情念(passion)」によってもたらされるのであり,理性はよりよい意思決定を行う方法を見出すためにだけ役立つのである.この意味で「理性は情念の奴隷である」(ヒューム 1951/1739,p.205).また情念そのものを理性的に論じることはできない.「全世界の破壊を自分の指を掻くことよりも好むことは理性に反しない」(ヒューム 1951/1739, p.206)のである.
 今回は新古典派経済学の人間観について,意思決定理論に遡って確認してきた.その理解を抜きにしては,行動経済学等の近年の経済学の展開の意味は理解することができないものである.次回は,80年代以降,経済学のさまざまな分野に深く組み込まれるようになったゲーム理論においても,新古典派経済学の人間観が基本的に継承されていることを述べることにしよう.また,合理的人間像と並んで,新古典派経済学のもう1つの柱である「方法論的個人主義」についても説明し,合理的選択理論に基づく20世紀の社会科学理論がどのような意味を持っているのかについて総括したい.

 関連図書

[1]ハーバート・ギンタス(2011)『ゲーム理論による社会科学の統合』小川一仁・川越敏司・佐々木俊一郎・成田悠輔訳,NTT出版.
[2]ジョセフ・ヒース(2013)『ルールに従う――社会科学の規範理論序説』瀧澤弘和訳,NTT出版.
[3]デイヴィド・ヒューム(1951/1739) 『人性論(三)』大槻春彦訳,岩波文庫.
[4]マット・リドレー(2004)『やわらかな遺伝子』中村桂子・斉藤隆央訳,紀伊国屋書店.
[5]ジョン・サール(1997)『志向性――心の哲学』坂本百大訳,誠信書房.

 文献案内
イツァーク・ギルボア(2012)『意思決定理論入門』川越敏司/佐々木俊一郎訳,NTT出版

2282 提出される選択問題に回答していくことで,意思決定理論の基本概念を学ぶことができるようになっている.期待効用理論,ベイズの定理,プロスペクト理論など,意思決定理論の主要なトピックが網羅されている.