[ 連載 ]

イエスの魚釣り

第2回「ばらばら」と「まとまり」

1.収束しないこと

  倫理、そして倫理を語る表現について考察する連載の第二回目。今回も前回に引き続き、アーティスト・田中功起の「協働」をテーマとした実践と作品が、どのようにして単なる「善い話」におさまらずに、オリジナルな方法で倫理について語りえているか考えていく。田中自身が用いる、二つの言葉「収束しないこと」と「抽象」を導き手にしながら、考察を進めていこう。
 前回、私は、田中功起によるヴェネチア・ビエンナーレでの展示「抽象的に話すこと」の作品群を、複数の人たちが、互いの「意図」に合わせるというよりは、むしろ個々に自分の行為に専念しながら、それでもなお一緒に何かを作る/行うという、極めて興味深い協働性の記録だと述べた。要するに個々人ばらばらでありながらも、まとまってひとつのことをするという協働性である。これはいわゆるヒト特有だとみなされている協働性、つまり相互にとって利益となるひとつのゴールを共有し、共感(sympathy)や同情(compassion)を媒介とした協働性理解とはずいぶん異質なものに見える。発達心理学者マイケル・トマセロの整理に従うならば、田中が示す協働性は、むしろチンパンジーやライオンなど、ヒト以外の動物が、共同で狩りをする際の協力体制に近いと言えるかもしれない。
 複数の人たちが個々に自分の行為に専心しながら、それでもなお一緒に何かを作る/行うというタスクは、基本的に一つの結論、クライマックスへと収束することがない。「善い話」というのは、往々にして、ベタに一つの結末へと落とし込まれる話である。だから、その意味でも田中の作品や実践は、いくら協働作業という一見「善い話」を主題にしていたとしても、一義的に収束する「善い話」になりえないのだ。ビエンナーレで公開された五つの作品のなかで、ビエンナーレ以前に制作されていた「ひとりの髪を九人の美容師が切る」(2010年)、「一台のピアノを五人のピアニストが弾く」(2012年)では、最後に一応の完成形、少なくとも最終形態ができあがり、参加者が笑顔を見せる場面で終焉する。しかし、果たして参加者の全員が最終形態について合意に達したのかどうかは本当のところは不明瞭で、「とりあえず終わり」という合意にマジョリティの意見が到達した、あるいは(参加者の一人が派手にガッツボーズをすることによってなかば無理矢理)達したことにした、ということでしかないようにも見える。「ひとりの髪を九人の美容師が切る」も、ラストは、満足とも不満足ともみえるアンヴィヴァレントな表情のモデルがトイレに行き、既に酔っぱらっている者たちもいる美容師たちがゆるゆる散会していく映像で幕を閉じる。
 こうした集団的行為の非収束的な特徴は、ビエンナーレのために制作された作品で、いっそう際立っている。「ひとつの詩を五人の詩人が書く」(fig.4)では、収束しない状況を、知らず知らずのうちに収束させようとしてしまうことに対して参加者が自覚的になる瞬間がある。つまり、詩を順番に書き連ねているうちに、参加者の一人が、自分たちがいつのまにか「終わらせよう」としてしまうことに対して注意を促す瞬間があるのだ。また、「ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る」に至っては、幾つかの方法で制作してみるのだけれど、結局どれも成功しない。異議を主張し続ける参加者と何とか成功させようとする参加者との議論が続けられるなか映像は終焉を迎え、未完成の壷や皿が協働作業の残骸として残されることになる。

IMG_2202.jpg(1) fig4 「ひとつの詩を五人の詩人が書く」(2013年)

 五つの作品のなかで形式が少し異なる「振る舞いとしてのステイトメント」(2012年)(fig.5)では、「収束しないこと」がテーマとしてさらに前景化している。この映像作品では、大勢の人たちが、本を片手にビルの外側に備え付けられた非常階段を昇り降りする様子が撮影されている。震災直後にロサンゼルスにいた田中が、距離を超えて反原発デモに参加する方法について考えた結果、制作されたのがこの作品だそうだ。震災の後に都心で行われていた計画停電の際には、多くの人たちがエスカレータのかわりに階段を使用していた。この出来事に着想を得た「振る舞いとしてのステイトメント」は、日常的な行為である「階段を昇り降りすること」に震災後の文脈を読み込むことで、震災以前にも行われていた行為が読み替えられることを指し示している。しかも、映像のなかでは、階段を降りる人もいれば、昇ってくる人もいる。降りる人は震災後の避難の様子を思い起こさせるが、昇る人は反原発のデモやそれ以外の可能性を示唆しているようにも見える。このように複数の解釈可能性を保つことによって、この作品は、反原発のデモンストレーションを下敷きにしつつも、私たちが置かれた状況の複雑さを表現することに成功している[1]

DSC_3070.jpg(1) fig5 「振る舞いとしてのステイトメント」(2012年)

 2.ばらばらとまとまり

  明確なクライマックスがないこと、解釈が一義的ではないこと。さしあたり「収束しない」という田中の作品/実践の特徴を成り立たせる、二つの主要な要素が見つかった。しかし、まだこれだけでは、なぜ収束しないのか、またどのように収束しないのかについて、十分に触れられている気がしない。そもそも私見では、物事が「収束しないこと」、もっと言うならば、物事が収束しているように見えて実は収束していない、あるいは本当は収束していないのに収束したかのようにみなされることといった、非収束と収束、言い換えるならば、「ばらばら」と「まとまり」のせめぎあいは、田中が初期から一貫して追究してきた本質的なテーマだ。前回も簡単に触れたように、田中は2000年代初頭から、さいころが回り続ける、バスケットボールがはね続けるなどの、映像が無限にループする映像作品を制作していた。「始まりも終わりもない」ループが非収束性のひとつの表現であることは間違いないが、2003年の傑作Each and Every を転機とし、2004年以降、日用品のオルタナティヴな使用法へと表現が広がることで、「収束しないこと」の表現は一段階複雑になる。
 この時期の代表作を二つ例に挙げてみよう。2005年に制作された「バケツとボール」では、「ボールがバケツに入る」という出来事(イベント)の様々なヴァリエーションが示される。「ボールがバケツに入る」という出来事のまとまりは、「ボールが床にバウンドしてバケツに入る」、「ボールが梯子の穴をくぐってバケツに入る」、「ボールがバケツの置かれた椅子の背にはねかえってバケツに入る」などなど無数の可能性に開かれていることを私たちは目撃する。そしてラストシーンでは、ボールはバケツではなく、裏返して積まれた椅子の座部にすっぽりと入り、「ボールがバケツ以外のものに入る」という別の出来事の系(セリー)へとずらされて映像は終わる。また、2006年にインスタレーションとして制作された後、2007年にシングル・チャンネル用に再編集されたというEverything is Everything (fig.6)では、6分間にわたって、アルミホイル、ハンガー、マットレス、トイレットペーパーといった日用品が、通常の使用法とは異なる仕方である種使用され、変形したり移動したりする。この映像作品では、扇風機の風に優雅にたなびくトイレットペーパー、逆さに置かれぱたんと落下する長靴、ぽこんと音をたてて地面で弾むプラスチック容器など、それぞれのものの性質が無数の行為可能性へと開かれていることを私たちは観ることになる。

everything08fig6 Everything is Everything (2007年)

 このように、協働性をテーマとする以前の田中の映像作品もまた、無数に開かれていく使用可能性、行為可能性を開示することによって、「収束しない」ように構成されていると言えるだろう。しかも、このように構成された(まとめられた)作品を実際に観るとき、観る者はダイレクトに「まとまりきれないこと」=「ばらばら」を持続的に経験することになる。たとえばEverything is Everythingを実際に観ている時、個々の出来事は、確かにひとつのシーンとして分節化されてはいるのだけれど、その出来事を、まとまった「意味」として即座に理解することは簡単にはできない。ここで言う「まとまった意味として理解することが容易ではない」とは、コンテンポラリー・アートに対してしばしば浴びせかけられる「意味が分からない」やナンセンスとは同義ではない。そうではなく、はっとするほど鮮烈な映像で撮影された日用品が、通常の使われ方をしていないこと、私たちが慣れ親しんだ使われ方=「意味」からかけ離れていることにより、観ている私たちが、そこで起きている出来事をひとつの命題としてまとめあげるのに時間がかかるということなのだ。先ほども挙げたトイレットペーパーの場面を例に考えてみよう。画面にはくるくる回りながら、風に吹かれて白い帯を伸ばしていく物体が映し出される。観る者は、まずひらひらふわふわしている物体がトイレットペーパーだなと認知する、下にあるのは扇風機だなと認知する、その上で、ようやく扇風機の上に置かれたトイレットペーパーが扇風機の風に吹かれて旋回しながら帯を宙に舞わせているという出来事を理解するのだが、理解するかしないかぎりぎりのところで次のシーンに移る。観る者が、個々の出来事を観ながら、それが一つの意味をなすかなさないかのぎりぎりの状態で、映像を見続けて行くようなテンポで編集されているように見える。
 この特徴が極めて洗練されたかたちで、先駆的に表現されているのが、先ほども転機となったと書いた2003 年のEach and Every(fig.7)だ。料理人の調理現場を記録し、30分に渡ってループさせたこの映像では、調理人がタコをさばいたり、イカの骨をとったり、肉や野菜など様々な食材を刻んだり、いためたり、中華風のパイ生地のようなものを焼いたりしている。しかし、料理が最終的に出来上がるシーンが登場しないために、私たちは、タコの皮をむく、タコのいぼいぼを切り取る、といったぷりぷりした質感溢れる映像によって映し出された個々のタスク(課題)が、結局全体としてどのような行為の一部をなしているのか分からないままに映像を観続けていくことになる。発達心理学者エレノア・ギブソンに従うならば、一つの行為において様々なタスクは全て入れ子状になっている[2]。たとえば「焼きそばを作る」という行為には、鍋を火にかける、麺をゆでる、野菜を冷蔵庫から出す、野菜をまな板に載せる、野菜を刻む、肉を冷蔵庫から出す・・・といった無数のタスクが入れ子になっているわけだ。しかし、Each and Every で私たちは、いわゆる下ごしらえ的な個々の行為を入れ子にしているより上位の「・・・という料理を作る」というユニット=意味をどこかで予期しつつ、しかしそこには永久に辿り着けないままに、延々と個別のタスクの遂行をばらばらに目撃していくことになる。

eachandevery03fig7 Each and Every (2003年)

 哲学者・菅野盾樹も言うように、意味とは、人間の認知に尽きる問題ではなく、生き物の生命活動にも関わる広い射程をもった概念である[3]。生き物は環境内に意味のまとまりを発掘し、使用することで生きるし、新たに意味をつくり出したりもする。このような文脈においては、「意味」を「情報」と言い換えたり、生態心理学的に「アフォーダンス」と言いかえることもできるけれど、今回はこの問題には深入りしない。しかし、言うまでもなく、意味は事物の属性のなかに発掘される限りにおいて、行為者の関わり方によって現れたり失われたりする。「割れる」という属性と「転がる」という属性を持っている卵のいずれの属性が意味として顕在化するかは、行為者の関わり方によって異なるわけだ。こうした文脈での意味の現れと喪失、あるいは意味の現れなさと離散の瞬間を記録しているのが、まさに先に挙げた田中の「バケツとボール」であり、Everything is Everythingだと言えるのではないだろうか。
 生き物は意味というユニット=「まとまり」なしに生きることはできない。けれど、行為者によって発掘された意味は、あくまでも事物のなかに無数に潜在する意味の一つに過ぎない。ヒトは行為と意味のセットを規範として定めることもあるけれど、この規範が完全にほかの意味の可能性を排除することはできない。食卓に乗ることが行儀の悪いことだとしても、やろうと思えば何時だってできる。同時に、たとえ行為者が同じ行為を行っていたとしても、全く同一の身体運動を繰り返すということも原理的にありえないから、意味は、ひとつにまとまった次の瞬間には、必然的にばらばらにほどける。意味というユニットがばらばらに離散しうるからこそ、私たちの世界も、私たちの世界も画一化されない意味に溢れていると言えるし「豊か」なのである。「ばらばら」と「まとまり」、これを生きることの原理として考えることができるならば、田中は最初期の作品から一貫して、この生きることの原理を様々なレベルで追究しているとも言えるだろう。また、田中の表現が単純な意味でのナンセンスになっていないのは、意味がしばしばレベルを変えながら立ち現れては消えて行くプロセスそのものを捉えているからではないだろうか。

 3.意図・目的

  2008年頃、田中の「ばらばら/まとまり原理」の探究は、さらに一段階展開する。前節で分析した日用品のオルタナティヴな使用をテーマとした映像作品に継続するかたちで、日用品を使用する田中自身の姿が映像に映り込んで行くようになるのだ。このように行為の主体である人物が等身大で映し出されることで、モノの使用価値という要素にプラスして、行為主体の「意図」や「目的」という新たな「まとまり」がプロブレマティックとして出現してくる。シリーズとして制作されているWalk throughでは、田中自身が様々な日用品を通例とは異なる仕方で使用しながら踏破する様子が撮影されている。これらの映像は、観ているうちに、サスペンス映画やホラー映画のように見えてくる。私たちは、無意識的に、これらの映像のなかに登場する行為者の意図や目的という「まとまり」を予期してしまうのだが、それを理解することはできない。つまりこの作品を観る者は、様々なモノを通例とは全く異なる仕方で、表情を変えず、決然と(この迷いのなさ、速度もおそらく重要)使用したり、破壊したりし続ける田中が何を意図しているのか分からないために、持続的な緊張状態のなかに宙づりにされることになるのだ。その結果、映像のなかで、一人の行為主体が行う行為は、連続しているけれど、あくまでも脈絡のない「ばらばら」なものとして捉えられていくことになる。
 ビエンナーレで展示された協働性をテーマにした作品群、そしてそれらと並行しながら現在も続けられているプロジェクト「不安定なタスクprecarious tasks」は、こうした「ばらばら/まとまり原理」の探究の延長線上、しかも2008年以降の「意図」や「目的」というプロブレマティックが加わったかたちでの探究としても、位置づけられる。田中はしばしば「自分は作品を作っているというよりは、状況の設定しかしていない」と言うが、確かに田中のタスクは、たとえば「インスタントコーヒーを入れる」といったような明確な目的とセットになった課題ではなく、状況設定に過ぎない点が特徴的だ。「不安定なタスクprecarious tasks」の課題は、たとえば「キッチンの片隅に忘れられていたティーバッグを持ち寄りブレンドされたお茶を飲むこと」であったり、「自分の名前についてどう思っているのかをだれかに話すこと」であったり、「要らなくなった服を持ち寄って交換する」だったりする。これらのタスクは行為そのものを自己目的化した課題ではなく、とりあえず集まってやってみる仮設的なタスクに過ぎないとされている。つまりそれらのタスクは、そのタスクによって実現する何らかのより上位の(それを入れ子として内包する)行為を目的に設定されていることが含意されつつも、誰もその最終的な目的を知らないままに取り組まれることになるのだ。
 ビエンナーレで展示された五つの作品=実践の記録でも、「共に何かを作る」という、それこそ非常に抽象的なタスクは決定されているが、実際に何を作るか(具体的な目的)は決まっていない。しかも、田中のプロジェクトに登場する参加者たちがプロフェッショナルであることの証なのだろうが、彼らは最終目標をイメージ化してそれを共有することを積極的には行わない、あるいは共有を放棄していく。たとえば美容師たちは一応のイメージを当初設定するが、実際に切り始めると、どんどんそこから逸脱していく。あるいはピアニストたちについても、フーガやアルペジオなどのスタイルを定めつつもそこからいかに逸脱できるか冒険する者が登場したり、そもそも予め形式を決めてしまうことへの異議が申し立てられたりするのである。固定的なイメージによる目標(アリストテレス的に言えば「形相」)の共有など不可能であることを、もの作りの専門家である彼らは経験的に知っているのかもしれず、文字通りの手探りで作業は進んで行く。個々人の意図にしても、その都度知覚される音や粘度のかたちや言葉の響きによって、意図自体が絶え間なく変化していっているように見える。むしろ壷や皿などの特定の用途があるものを制作するため、限定されたイメージに制約されるからだろうか、陶芸家たちのグループのみが、集団による制作に行き詰まり、制作そのものを断念することになる。
 田中の映像を観るかぎり、私は、ゴール=最終目的の共有こそが人間的な協力の条件であるというトマセロの主張に改めて首をかしげたくなるのだが、おそらくこの議論を詰めるためにはトマセロによる「ゴール=目的」の定義をより厳密にしなければならないだろう(この問題については、回を改めて考えてみたい)。いずれにしても、田中が仕掛けた協働性をめぐるプロジェクトでは、参加者たちは意図や目的という「まとまり」を完全に共有することはなかった。それでも彼らは、完全にばらばらになることはなく作業を続け、最終的に決裂してしまった陶芸家グループも含め、何とかして「私たち」を成立させようとして、田中が設置した丸テーブルの周りに何度も腰を下ろし、言葉を交わし、ルールを作ろうとしたのである。興味深いことにルール作りも話し合いも、具体的な作品作りのためにはほとんど役立たない。実際の制作は、さっきの話し合いはなんだったの?と言いたくなるくらい、オートノマスに進むのである。むしろ一緒にいよう、共にやろうということの確認のためだけに、ルールを作るという作業が行われているようにさえ見える。田中はいみじくもこれらのプロジェクトをマイクロ・ソサイエティーと呼んでいるけれど、複数のケース・スタディとして映像に記録された現象は、私たちの「社会」という、あたかも存在するかのように思われているが全く自明ではないユニットのありかたを知る上で極めて示唆的である。

 4.笑いと撹乱

  このように田中の実践とその記録としての作品は、わかりやすい結論・意味・目的に収束する「善い話」からは遠くかけ離れて、ヒトが生きること、しかもヒトがヒトとともに生きることが、いかに手探りで曖昧で割り切れないかを示す。けれど、とても爽快かつ軽妙なやり方で。具体的な日常から出発しながらも極めて抽象的で洗練された田中の映像は、そのギャップや不合理さゆえのユーモアに満ちている[4]。状況設定ひとつとっても、本来一人でやることが前提となっている作業を複数人数でやることは、それ自体無理があるがゆえに面白い。たとえば「一台のピアノを五人のピアニストが弾く」(2012年)(fig.8)で、一台のピアノの前に実際に五人が座った瞬間、「狭い」と笑い出すのは出演者だけではなく、観者もまた同様に「無理あるわー」と微笑まずにはいられないのだ。たとえ映像のなかで参加者が泣き出すなどの修羅場があっても、実際その場に傷つき悲しんだ人がいたことは認めざるをえないにしても、不快な感触は残らない。むしろヒトとは、生きるとはこういうことだという感慨しか浮かばない。こんな風に言うと「善い話」になってしまうみたいで少し困るけれど、確かにこれは田中の「抽象」[5]という手法がもたらす独特な感覚である。

DSC_0112.jpg(1)fig8 「一台のピアノを五人のピアニストが弾く」(2012年)

 田中は、ビエンナーレ後の蔵屋、そして映像作家・藤井光との対談で「福島のモンティ・パイソン」を自分自身の宿題にしたいと語った[6]。モンティ・パイソンとは、イギリスのコメディアン集団であるが、田中は笑いに当事者と傍観者という区別を撹乱する作用もあると述べ、私たちの人間性があぶりだされるような、そして震災以降の日本という「萎縮した土壌」を揺り動かすような笑いがあったらよいと言っている。揺り動かし、撹乱する笑い。しかし、決して暴力的にならないのが、田中の実践/作品の素晴らしいところだ。田中の実践/表現は、大げさなロマンティシズムともシニシズムとも異なる道を進み続ける。厳しい現実認識に基づいているのに、どこまでもフラットに、ばらばらに、自由に、優しく。最も今日的な倫理とその表現が田中功起の実践/作品にはある。
 次回、私は福音書のイエスの実践を取り上げるが、その根本にあるのもまた、個々人が「ばらばら」でありながらも助け合える(=「まとまり」)協働性に対する関心である。福音書に記されたイエスの実践が、今、私たちが抱える問いかけにどのように応答しうるのか、記述していくことになる。

 【note】

 [1] 田中功起『必然的にばらばらなものが生まれてくる』武蔵野美術大学出版局、2014年、44-45頁。

[2] Gibson E. J. (1997). An ecological psychologist’s prolegomena for perceptual development: a functional approach, In C. Dent-Read & P. Zukow-Goldring (Eds.), Evolving Explanations of Development: Ecological Approaches to organism-environment systems, American Psychological Association.

[3] 菅野盾樹「意味」『哲学の木』講談社、2002年、76-78頁。

[4] 初期から一貫して行っている日用品を使うという方法自体も、美術史観に取り込まれた「深刻さ」を回避する方法だったと田中は述べている。Art review, April 2015, p.73. http://artreview.com/magazine/2015/april_2015//

[5]  田中の言う「抽象」という方法は、ある部分、要素のみを取り出し、それ以外のことを捨て去るという般的な意味に加えて、収束しない事態を見つめ続けるという田中独自の方法に対しても言われている。「ぼくの実践は決して抽象的で曖昧なものではない。具体的なアイディアをもとに、だれかが参加して、目に見える形でものごとが進行し、明らかな結果がそこに生じるものだ。だとすれば抽象的なものどころか、むしろあまりにも即物的な具体性に満ちたものと言えるだろう。ところが明らかなものたちがひとつの場所に集められるとき、全体としては抽象的な曖昧さが出てくるということがある。はっきりとした複数の反発する意見が出そろって、どこに向かうのかが見えなくなってきた会議のようなもの。ぼくは、しかし、そうした抽象に可能性を感じている。複数の異なる意見を抱えもつことは、いわば複数の距離を自分の中に抱え持つことに似ている。ひとつのものごとを複数の距離感によって凝視すること。それによって生じる曖昧さの中で思考すること。日本館というプロジェクトがぼくにもたらしたのはそうした考え方だった。・・・抽象はその意味では時間と空間を越える可能性を持っている。なぜなら抽象の中に保存された複数の思考は、割り切れないまま歩き続けることでもあるからだ。」(『必然的にばらばらなものが生まれてくる』34頁)田中が言う「抽象」は、多様な視点から見ましょう、といった相対主義的視点の獲得よりも、ずっと細やかで忍耐強い。それ自体倫理的な態度を示唆していると私は思う。田中は複数の視点、複数の距離をとることによって複数のレベル・レイヤーで同時に、そして継続的に事象を見つめ続ける。この複数の「距離」と「抽象化」に関する、もっとも新しい実践のひとつはパラソフィア(京都国際現代芸術祭:2015年3月7日〜5月10日)で観ることができた。ここで田中は複数の距離からの「歴史」と「現在」の接続を試みているように見える。http://www.parasophia.jp/artists/koki_tanaka/ また筆者は未見であるが、現在開催中のドイツ銀行クンストハーレでの個展(http://www.deutsche-bank-kunsthalle.de/kunsthalle/index.htmlはこれまでの実践を非時系列的に再配置したレトロスペクティヴになっている。

[6] 『必然的にばらばらなものが生まれてくる』32頁。

【copyright】

(fig4)
Project title: A Poem Written by 5 Poets at Once (First Attempt)
Year: 2013
Form: Collaboration, Video documentation (68 min 30 sec)
Location: Japan foundation, Tokyo
Curator: Mika Kuraya
Commissioned by The Japan Foundation
Equipment Support: ARTISTS’ GUILD
Participants: Mari Kashiwagi, Mizuki Misumi, Rin Saito, Keijiro Suga, Jo Tachibana
the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo

(fig5)

Project title: A Behavioral Statement (or, An Unconscious Protest)
Date: October 5, 2012
Format: Collective acts, photo documentation
Location: The Japan Foundation, Tokyo
Curator: Mika Kuraya
Commissioned by The Japan Foundation
Equipment Support: ARTISTS’ GUILD
Production photography: Fujikawa Takashi
Participants: Naohisa Abe, Ning Ding, Satomi Eguchi, Yoko Fujita, Misako Futsuki, Mihoko Himeda, Rika Hirano, Mayu Honda, Teruyuki Hoshina, Nobuaki Iizawa, Yuka Imai, Masanobu Ito, Yuri Izumi, Miwa Kaneko, Yuta Kaneko, Yo Katsurayama, Mihoko Kobayashi, Tetsuya Koide, Junko Kurata, Kazunori Matsunaga, Shota Miyake, Fusako Miyamori, Kaoru Miyamoto, Juri Murakami, Yukiko Murooka, Haruka Nakajima, Tomoko Nakamura, Reiko Nariyama, Yuka Niwayama, Akihiko Noda, Kousuke Noguchi, Ayako Ochi, Tsuyako Ogushi, Makoto Ohnishi, Yuko Oku, Yukio Oshida, Kanae Rachi, Noriko Sato, Masaya Shimoyama, Rie Shoji, Keiji Shono, Masayuki Suzuki, Yuko Tachibana, Makie Tahara, Masanori Takaguchi, Mana Takatori, Hidekazu Takeda, Yasuhiro Takehara, Aya Tamura, Shin-ichi Tanaka, Maki Toshimori, Norihisa Tsukamoto, Hiroaki Uesugi, and Yuuki Yamaguchi
photo courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo

(fig6)

title: Everything is Everything
year: 2006
material: 8 channel HDV, color, sound
time; Each film is between 1 and 2 min
photo courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo

(fig7)

Project title: Each and Every
Year: 2003
Format: Video Documentation (30min loop)
Location: Zensai Ya Restaurant TANTO
Participant: Kazuya Shimizu
photo courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo

(fig8)

Project title: A Piano Played by 5 Pianists at Once (First Attempt)
Year: 2012
Format: Collaboration, video documentation (57 min)
Location: The University Art Galleries, University of California, Irvine
Curator: Juli Carson
Commissioned by The University Art Galleries, University of California, Irvine
Participants: Adrian Foy, Kelly Moran, Devin Norris, Ben Papendrea, Desmond Sheehan
photo courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo