[ 特別記事 ]

恋愛小説はゲーム理論の最強の教科書である

あとがき本棚1|ジェイン・オースティンに学ぶゲーム理論―恋愛と結婚をめぐる戦略的思考|訳者あとがきより

2017/2/14

経済学をはじめ社会科学や様々な分野でますます注目されるゲーム理論。本書はカズオ・イシグロも敬愛するイギリスの代表的作家ジェイン・オースティンの恋愛小説を読みながら、ゲーム理論を解説する話題作。最先端の理論に大きな示唆を与え、オースティン研究にも新たな視点をもたらす、ゲーム理論、文学研究双方にとって刺激的な必読書。


KEYWORD  ゲーム理論 ジェイン・オースティン マイケル・S‐Y・チェ 経済学 数理科学 恋愛 結婚

 [訳者あとがき]

 本書は、Jane Austen, Game Theorist, Princeton University Press, 2013 の全訳である。また、2014年に刊行されたペーパーバック版へのあとがきも収録してある。また、この日本版では、オースティン作品になじみの薄い読者の便宜を図って、各作品の主要な登場人物の関係を示した人物相関図と、漫画家・蒲生総氏によるイラストが新たに付け加えられている。

 

 

 著者のマイケル・S‐Y・チェは、2007年にノーベル経済学賞を受賞した著名なゲーム理論家ロジャー・マイヤーソンの指導の下、ノースウェスタン大学で経済学博士の学位を取得、現在はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授を務めている。(名前の発音表記について著者に直接尋ねたところ、「チェスのチェ」だと教えてくれた。http://www.polisci.ucla.edu/people/michael-chwe も参照のこと。)

 その研究は、コーディネーション問題やコミュニケーションが協調に果たす役割などの理論研究が中心であり、その成果の一部はすでに邦訳されているRational Ritual(『儀式は何の役に立つか―ゲーム理論のレッスン』新曜社、2003年)に多くの事例を通じてわかりやすく解説されている。チェ教授自身は自からを政治学者と規定しており、本書でも前著でも政治的な事件に関するゲーム理論による分析が多く取り入れられている。

 さて、本書は、イギリスを代表する作家ジェイン・オースティンの作品を主として取り上げ、それをゲーム理論によって分析することにとどまらず、逆にオースティンからゲーム理論の極意を学ぼうとさえするものである。事実、本書の随所で、オースティンの戦略的思考に関する「分析」は、現代のゲーム理論の先を行っていることが指摘されている。

 ゲーム理論は20世紀の初めに数学者のジョン・フォン・ノイマンによって生み出された新しい数理科学である。それは、ポーカーのような遊戯ゲームに始まり、企業間の競争と提携、さらには国際間の対立と協調に至るまでの、戦略的な駆け引きを理論的にモデル化するものである。

 ゲーム理論はその初期の時代においては、ランド研究所に集う数学者らによって軍事戦略への応用を期待されて研究が進んだが、その有効性を最も理解したのは経済学者たちであった。それは、フォン・ノイマンによるゲーム理論に関する最初のテキストが、経済学者のオスカー・モルゲンシュテルンとの共著『ゲームの理論と経済行動』であることからもうかがえる。特に、1980年代以降、ゲーム理論は経済学の分析道具として欠くことのできないものとなった。

 政治学をはじめとする他の人文・社会科学については、本書の最初の章でチェ教授自身が詳しく述べているように、ゲーム理論が前提とする合理的選択理論への嫌悪感のためもあって、その浸透はかなり遅れた。もちろん、『紛争の戦略』(原著1960)を著した政治学者トーマス・シェリングが2005年にノーベル経済学賞を受賞したことからも明らかなとおり、政治学や心理学の分野で先駆的な成果を上げていた研究者たちももちろん存在した。

 現在では、ゲーム理論は人文・社会科学にとどまらず、情報科学や生物学、はては物理学の研究に至るまで応用されており、学問分野を横断する科学の共通言語になりつつある。

 チェ教授が著した本書は、このゲーム理論の考え方を、ジェイン・オースティンの作品を中心に、シェイクスピアやアフリカ系アメリカ人文学、童話・民話、それに公民権運動やアメリカ軍によるベトナム・イラクへの武力侵攻といった政治的事件を読み解いていくという形でわかりやすく紹介しようとするものである。

 また、オースティン作品になじみがない読者のためにそのあらすじが要約されているほか、本書全体にはふんだんにオースティン作品からの引用があるので、きっと読者は本書の読了後、オースティン作品そのものを手に取りたくなるに違いない。ちなみに、本訳書が出版される2017年は、ジェイン・オースティン没後200周年という記念すべき年である。

 さて、こうした作品分析を通じてオースティンは、自分自身の意思で決定を行う女性に最高の価値を認めており、その意思決定を成功に導くためには、他人の考えを先読みし、それを戦略的駆け引きに活用する「洞察力」や「察しの良さ」が不可欠であることを、数学的なモデルではなく、恋愛や結婚を成功に導こうとするヒロインたちの物語を通じて体系的に提示したのだ、というのがチェ教授の主張である。

 もちろん、ときには「察しが悪い」ことが人間関係を円満に収めていく上で重要なこともある。鋭い戦略的技巧も使うタイミングを間違えば失敗に終わることを、『エマ』のヒロインであるエマを通じてオースティンは指摘することを忘れてはいない。また、感情や社会的規範が意思決定に及ぼす影響など、現代の行動経済学にもつながる考え方でさえ見て取ることができる。このように、合理的選択理論を超える考え方までもが、すでにオースティン作品には見られるのだ、ということが本書の随所で指摘されている。

「察しの悪さ」は cluelessness という言葉に対して訳者が知恵を絞って考えた訳語である。この他にもなかなか訳しにくい部分があったし、また、アフリカ系アメリカ人文学ではスラングの意味を取るのに苦労した。既訳がある場合はそれらを参考にさせてもらった部分もあることをお断わりしておく。とりわけ引用箇所の多いオースティン作品については、ちくま文庫の訳文の全面的使用を許諾していただいた中野康司先生に感謝を申し上げたい。

「察しの悪さ」は本書のキーワードの一つであるが、チェ教授は本書の随所で、心理学者サイモン・バロン=コーエンらが唱える「心の理論」仮説の立場から自閉症スペクトラムと「察しの悪さ」との関係を論じている。

「心の理論」自体は広く受け入れられた仮説であるが、オースティン作品などに登場する「察しの悪い」人物を「自閉症的」と断定する部分については、違和感を抱く部分がなかったわけではない。

 訳者は以前、同じく政治学者のスティーブン・ブラムス教授の『旧約聖書のゲーム理論』(東洋経済新報社)を翻訳したことがある(本書にも引用されている)。こうした文学作品をゲーム理論によって分析することの利点は、チェ教授も強調しているように、「もしあのときこうしていれば……」という仮想現実的な決定の結末を合理的に予測できることである。このように、ゲーム理論は文学を科学的に取り扱う手法の一つとして考えることができるだろう。本書を通じて、読者の皆さんがゲーム理論を文学の研究や、さらにはご自身の恋愛や結婚に応用してみようという気持ちになっていただければ、訳者としてはうれしい限りである。また、本書と合わせてポール・オイヤー『オンラインデートで学ぶ経済学』(NTT出版)を読んでいただくと、ゲーム理論についてさらに理解を深めることができるだろう。

*再録にあたってWebマガジンの体裁上、一部省略・改変いたしました。編集部

 

目次

人物相関図

序文
第1章 概説
第2章 文脈で理解するゲーム理論
第3章 民話と公民権運動
第4章 フロッシーとキツネ
第5章 ジェイン・オースティンの六大小説
第6章 オースティンによるゲーム理論入門
第7章 オースティン作品における競合的なモデル
第8章 何が戦略的思考ではないかに関するオースティンの見解
第9章 オースティンによるゲーム理論の革新
第10章 戦略的思考のデメリットに関するオースティンの考え
第11章 オースティンが意図していたこと
第12章 オースティン作品における察しの悪さについて
第13章 実世界の察しの悪さ
第14章 結びの言葉

 

 

 

 

『ジェイン・オースティンに学ぶゲーム理論 恋愛と結婚をめぐる戦略的思考』2017年12月刊|書籍詳細