[ 特別記事 ]

5分でわかる行動経済学

WEB掲載|サンスティーン『シンプルな政府』解説

2017/11/20

アメリカ法学界きってのスター研究者

 学問の世界でも、多くの分野に、多大な影響を与えるスターが時折現れる。本書の著者、キャス・サンスティーンもそのひとりだ。一九五四年に生まれ、ハーヴァード大学ロースクールを修了し、米最高裁や米司法省といった法実務の現場を経験したのち、シカゴ大学、ハーヴァード大学に勤務するという、アメリカ法学界のエリートコースを歩んできた。

 研究者は一般に、二つのタイプに大別できる。一つは、狭い主題や領域で長く深く掘り下げていくタイプ、もう一つは積極的に新しいテーマや分野を開拓し、戦線を拡大していくタイプだ。これは両者のどちらかが優れているということではなく、研究者の生き様の違いのようなものだが、サンスティーンは明らかに後者に属している。ときに共著や共同研究を通して手がけてきた仕事は幅広く、多様で、しかも論争的だ。合衆国憲法や憲法史、言論の自由、民主主義といった法学における王道であり、古典的な主題から、動物の権利、人間の価値、クローンの倫理性、ソーシャルメディアをはじめとする情報社会論に至るまで多岐にわたっている。

 最近では映画『スターウォーズ』シリーズについて論じる著作さえも記している(The WorldAccording to Star Wars)。専門的な論文から一般的な著作に至るまで、大変多作の書き手といえるだろう。

 また、それらの著作の多くが世界各国で翻訳されていて、法学を中心に政治学、社会学といった諸学界のみならず、政策実務の現場や一般の読書人にも強い関心をもって受け止められている。日本語にも数多く翻訳されている。ここ一〇年の代表的な仕事を列挙してみたい。

  •  二〇一七年 『選択しないという選択──ビッグデータで変わる「自由」のかたち』(勁草書房)
  •  二〇一六年  『賢い組織は「みんな」で決める──リーダーのための行動科学入門』(リード・ヘイスティとの共著、NTT出版)
  •  二〇一五年 『恐怖の法則──予防原則を超えて』(勁草書房)
  •  二〇一三年 『動物の権利』(マーサ・C・ヌスバウムとの共編著、向学社)
  •  二〇一二年 『熟議が壊れるとき──民主政と憲法解釈の統合理論』(勁草書房)
           『最悪のシナリオ──巨大リスクにどこまで備えるのか』(みすず書房)
  •  二〇〇九年 『実践 行動経済学──健康、富、幸福への聡明な選択』(リチャード・セイラーとの共著、日経BP社)

 個人的には、二〇〇〇年代前半に情報社会論の文脈で紹介された一冊が記憶に残っている。『インターネットは民主主義の敵か』(二〇〇三年、毎日新聞社。原著Republic.com, 2001)である。「Web2.0」的な状況のなかで、インターネットと民主主義の関係も肯定的な論調が占めるなかで、サンスティーンの議論は異彩を放っていた。「集団極化」や「サイバーカスケード」といった現在でも通用する概念で、「ポストトゥルース」とも評される現代のメディア状況を予言的に論じていた。

 残念なことに、邦訳は現在絶版であるが、原著はRepublic.com 2.0(2009)や#Republic: DividedDemocracy in the Age of Social Media(2017)と進化を遂げながら、発展的に──ときに「転向」などといわれながら──議論が継承されている。また、今風にいえばビッグデータの先駆けとして話題になった予測市場を論じたInfotopia: How Many Minds Produce Knowledge(2006)などもある。情報法、情報社会論分野におけるサンスティーンの議論に再び光をあてるべく邦訳、文庫化などに期待したい。

 

行動経済学と「ナッジ」の台頭

 サンスティーンが二〇〇〇年代後半以後、一貫して強い関心を示しているのは、本書でも頻繁に参照される行動経済学の知見である。本書でも言及されるように、伝統的な経済学においては、長く「合理的な人間」としての「ホモ・エコノミクス」や「合理的な期待」が仮定されてきた。わかりやすくいえば、経済合理的な評価軸をもった人間が合理的選択を行うというイメージだ。だが必ずしもこれらの仮定を自明視してしまうと、現実を説明する説得力のあるモデルとはいえなくなってしまうことが指摘されてきた。損失回避や現状維持は、人間の認知において過大評価されがちであることも実験等を通じて知られるようになり、それらも合理的モデルとは折り合いが悪かった。

 現代の経済学は、複雑性と認知心理学、取引コストと経路依存性、実験といった隣接する分野の手法や知見を貪欲に取り込むことで新たな発展を見せている。行動経済学もその一つだ。なかでも人の選択に際して、系統的に発生するバイアスの傾向を、実験等の社会科学における新しい知見も貪欲に取り入れながら体系的に説明する、つまり「現実になされる選択を記述する」点がその特徴だという(リチャード・セイラー『セイラー教授の行動経済学入門』二〇〇七年、ダイヤモンド社)

 行動経済学の象徴的な到達点は、やはり二〇〇二年の認知心理学者ダニエル・カーネマンのノーベル経済学賞の受賞だろう。エイモス・トヴェルスキーとの共同研究「プロスペクト理論」の業績によるものだ。これがきっかけとなって、経済学を越えて、広く行動経済学に関心が向けられるようになった。カーネマンについては本書でも、世界的なベストセラーとなった『ファスト&スロー──あなたの意思はどのように決まるか?』(上下巻、二〇一四年、早川書房)などに言及がなされている。

 こうした経緯によって、最近ではこの行動経済学の知見を政策評価や政策形成プロセスに導入しようという試みが世界中でなされていることは本書で言及されているとおりである。余談だが、筆者も二〇一四年にイギリスの「ナッジユニット」こと「行動洞察チーム」を視察で訪問する機会があった。

 ナッジユニットは、二〇一〇年にイギリス政府の内閣府に設置されたが、二〇一三年に政府系ジョイントベンチャーとして独立している。政府機関等とのコラボレーションを通じて政策の合理化、イノベーションに貢献するための組織だ。セイラーの『行動経済学の逆襲』(二〇一六年、早川書房)によれば、セイラーとサンスティーンの『実践 行動経済学』が設立に大きく影響したと記述されている。
 ナッジユニットの洒落た、といっても全体的にカラフルでポップに仕上げられた内装は、まるでIT企業のオフィスを彷彿とさせるものだった。経済学はもちろん心理学、ヘルスケアなどさまざまな分野の博士学位を持った専門スタッフがおよそ一〇〇人配置され、カジュアルな服装で新しい政策評価の手法や機能的で費用対効果の高い政策について自由闊達に議論していたことを思い出す。
 本書は、こうした行動経済学的知見とそれらが社会に与える影響、制度設計と導入例、さらには設計思想を論じている。加えてサンスティーン自身が、米オバマ政権のもとで二〇〇九年から二〇一二年までのあいだに、行政管理予算局情報・規制問題室(OIRA)の室長として政策実務に携わった経緯も随所に描写されることで、類を見ない著作に仕上がっている。

 

ナッジで何ができるのか?

 本書には聞きなれない(といっても、サンスティーンの熱心な読者にとってはおなじみだが)概念が頻繁に登場する。以下でそのなかの幾つかを取り上げながら改めて整理、概観することで、新しい読者のための補助線としたい(なお、これらの概念については、前述の『実践 行動経済学』等にまとめられている)

  • ナッジ(Nudge)──直接的には「軽く、肘でつつく、押す」といったニュアンスだが、選択に際して「適切な選択」を推奨するさまざまな仕掛けのことを指している。『実践 行動経済学』では、「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する」と定義されている(一七ページ)。本書のなかで、サンスティーンはOIRAで取り組んだ施策はおもにナッジの活用を企図したものであったと述べている。

  • 選択アーキテクチャー(choice architecture)──選択肢の背後に存在する社会環境や構造のことを指すが、しばしば不可視な状態になっているとされる。

  • 選択アーキテクト(choice architect)──選択アーキテクチャーを実装する主体のこと。本書では「人々を『ナッジ』する」と表現されている。

  • デフォルトルール(default rule)──積極的な選択をしない状態で推奨される、いわば初期設定の選択肢のこと。

  • シンプルにすること/簡素化(simpler)──本書の中核となる概念で、人々が選択に際して直面する複雑さを極力低減するアプローチのこと。サンスティーンは民間部門、公的部門を問わず、選択における複雑さを有害視する傾向にある。

 これらは政策現場においても、各所で実装されている。たとえば本書ではアメリカにおける個人向け年金プログラム「SMART 401k」を例に挙げている。よく知られているように、アメリカでは公的年金が手薄なこともあって、労働者は私的な年金プログラムに加入し、個々人が老後に備えて自己責任のもとで資産形成を行わなければならない(近い将来の日本でも同様だろう)。しかし理屈ではわかっていたとしても、これが意外と難しいとされている。現状維持バイアスが働くからだ。

 少なくない給与所得者は一般に労働契約を結ぶキャリア初期の時点で、(人生後半の、したがって、遠い先のことのように思えてしまう)将来のリスクとコストを過小評価してしまい、将来の生活維持に必要な水準よりも低い水準の選択肢を選んでしまうのである。さらに複雑で、手間もかかる年金プログラムの設定変更は忌避されがちだとも指摘されていた。リスク評価の失敗は個々人の私的生活を脅かすのみならず、高齢の生活破綻者の増加を招き、場合によっては公費を投入して問題の解決に当たる必要が生じるだけに政府にとっても望ましい事態ではない。

 そこで解決策として、給料上昇に応じて拠出率を自動で引き上げる仕組みを初期ルールに設定することを試みた。本人が面倒で手間がかかると捉えがちな将来の人生設計に関する選択を棚上げしたとしても、自動で拠出率が上昇していくようにデフォルトルールを設定したのである。将来のリスクへの備えを促すべく(つまり望ましくない社会保障関連費等の公的支出の発生、増大を予防しつつ)、デフォルトルールでは公共(政策)的視点から望ましい給与の伸びと拠出率が連動する設定になっている、しかしそれでいて本人の意向次第では他のオプションを選択する自由は妨げていないところがポイントだ。

 日本の場合、国民皆年金の前提があるので、実態はさておくとして、無年金状態を選択することはできない(少なくとも、長期間支払いが滞ると、督促や財産の差し押さえの対象になる)。これは個人の選択の自由という視点では少なくない制限が課せられていると見なすこともできる。それに比べれば、一手間かければ個々の加入者が設定変更できるだけに、「SMART 401k」の場合、個々人の裁量(自由)の範囲が広いとも言えるだろう。

 

自由と平等の対立を調停する思想

 サンスティーンは、このような個々人の選択の自由を極力尊重しつつ、公共的視点に基づく政策的介入を否定しないアプローチを「リバタリアン・パターナリズム」と呼んでいる(ただしセイラーは『行動経済学の逆襲』のなかで、着想はセイラーによると回想している)。本来、自由至上主義と温情的父権主義をそれぞれ意味するリバタリアニズムとパターナリズムは相反する立場である。サンスティーンは行動経済学的アプローチ≒ナッジ的アプローチは両者の調停を可能にするアプローチだと見ている。この点を『実践 行動経済学』では、「リバタリアン・パターナリズムは相対的に弱く、ソフトで、押しつけ的ではない形のパターナリズムである」(一七ページ)と述べている。

 ここで、少しアメリカの政治社会的文脈についての補足が必要かもしれない。アメリカ社会は一般に建国の歴史や連邦政府に対する不信感等の理由で、連邦政府によるパターナリスティックな介入を顕著に忌避する傾向にある。もっぱら共和党支持層に分類されるが、銃規制に対する根強い反対やトランプ政権誕生後のオバマケア廃止をめぐる議論からもそのことが伺える。また、西海岸のIT業界でいまも根強く信奉されている、反権威主義的側面を含んだ自由至上主義的傾向、いわゆる「カリフォルニアン・イデオロギー」などもリバタリアンの系譜に位置づけることができる。

 その一方で、アメリカにおけるリベラル派はおもに民主党を支持し、連邦政府による積極的な介入の必要性を主張する傾向にある。アメリカは二大政党制の国でもあるから、両者の対立、分断は根深い。まさしく相反する思想的立場だけに、双方を納得させることは困難なのだ。だが、サンスティーンによれば、ナッジ的アプローチは、前述のとおりどちらの立場からも少なからず合意可能な政策手法だという。

 本書の中核をなす「シンプルにすること/簡素化」も「リバタリアン・パターナリズム」に貢献するナッジ的アプローチの一つといえる。(能動的)選択における複雑さの問題について、サンスティーンは、「選択する人の負担」「選択提供者の負担」「間違いの増加」の三点を指摘している。

 具体例として、本書では「長ったらしい奨学金申請書類」を例に挙げている(質問項目一〇〇以上!)

 このような書類が、優秀な学生の奨学金申請を阻害したり、申請者に書類政策を通じて高い負担を課している。簡素化を通じて、申請者の増加や進学が見込めるという。簡素化の重要な利点の一つは、場合によって追加の大規模な予算措置を必要とせずに顕著な効果を期待できるケースが少なからずあるからである。

 さらに簡素化アプローチは、「大きな政府か、小さな政府か」「福祉国家か(本書の表現に倣えば、世話焼き国家)、市場主義か」といったやはり根強く存在し膠着傾向にある既存の二項対立の超克を企図するものでもある。簡素化は政策手法でいえば明らかに規制緩和のバリエーションの一つだが、恐らく既存の手垢のついた議論とステロタイプ、バイアスを回避するために、「規制緩和(deregulation)」という表現を極力回避しているように見える。

 政策効果という意味では政治の裁量範囲は拡大( ≒福祉国家的)しているようにも見えるが、規制の総量は減少し、市場や個人の裁量が拡大している。この問題に即座に優劣をつけることは難しいが、二項対立に対して、サンスティーンは「複雑化か、簡素化か」という新機軸を持ち込むことで、調停を試みたのだ。

 

ナッジは万能か?──日本への導入にあたって

 本書やその他で提唱されるナッジ的アプローチ、そして簡素化は、日本ではどのように捉えられるだろうか。読者も知ってのとおり、日本社会は随所で申請主義と複雑怪奇な書類に溢れている。生活者と提供主体(自治体等)、企業等の負担感は高い。加えて、国、地方あわせて、一〇〇〇兆円を優に越える負債と、今後の高齢化による社会保障費、同関連費の増大にともなって、新規の政策のための財源に乏しい現状がある。

 それだけに、ナッジ的アプローチや簡素化の効果は大きそうだ。日本でも近年「政策のための科学」等の名称で、エビデンスベースの政策立案や政策評価について調査研究がなされている。学界でも「仕掛学」など、議論が端緒についている。だが実装や地方自治体といった観点からいえば、まだまだ存在感が乏しいのが実情だ。

 一九九〇年代から「新公共経営」といった名称で、政策立案や政策評価、業績評価等に民間の手法を取り入れようとしてきた背景がある。コストカットを中心に、正規職員の非正規職員への置き換えといった当該組織にとってわかりやすい「利点」がある施策は、積極的な導入が進められてきた。だが短期的にコスト増が見込まれる手法や、既存の利益関係を大きく変更しうる可能性があったり、外部からの見通しがよくなるような施策については、導入が見送られたり、従来方法と大差ないように換骨奪胎して取り入れる、といった独自のローカルルール化が多々見られるのが現状だ。

 たとえば、自治体の総合計画におけるPDCAサイクルは、計画から再実行が年単位で想定されていたりする。迅速な改善を促進する手法であるはずのPDCAサイクルだが、これでは名ばかりといわざるをえない。こうした事例は枚挙に暇がない。

 こうした状況から、ナッジ的アプローチ、簡素化アプローチの課題も見えてくる。ここでは二つほど挙げてみよう。まず懸念されるのは、選択する側が過度に選択アーキテクチャーを自明視してしまう可能性である。本書でも取り上げられる比較的効果測定が容易で費用便益分析の俎上に載せやすい行政的主題はまだしも、政治的性質を帯びる主題になればなるほど問題の深刻さは増してきそうだ。

 具体的には、選挙や憲法改正にかかわる施策だ。ともすれば参加促進がいわれるが、むしろ人々の脊髄反射を阻害し、熟慮を促すべきであって、デフォルトルールの影響に配慮すべきかもしれない。

 ただし、あらゆる選択はデフォルトルールの拘束から免れえないことを加味すると、その線の引き方についての議論は必要だ(このあたりの論点については、『選択しないという選択』が詳しい)。

 それから、もう一つは、「棚上げ」だ。前述のように情報公開や透明性の増大、経済合理的な政策は、しばしば政治的な利益配置の変更を誘発する。既得権益を有する側からすれば、望ましくない結論に至ることは少なくない。本書でも言及されるように、オバマ政権は透明性を重視し、「オープンガバメント」を掲げ、インターネットを活用しながら、積極的に取り組んだ。

 呼応するかたちで、日本でも「オープンガバメント」は民主党政権のもと鳴り物入りで導入されるかに思われた。だが、当初から政治的透明性についての議論は消極的で、「情報公開が経済効果をもたらす」という文脈が過度に強調されて引き継がれた。所轄も経済産業省だ。ホワイトハウスやOECDが政治の効率化や政治的腐敗防止を強調するのに対して、日本版オープンガバメントは、効果の実態も不明瞭なままに経済活性化にフォーカスし、既存の利益配置変更が生じにくい、似ても似つかない独自のローカルルールとなった。

 その後、自民党政権へと政権交代が起き、オープンガバメントや透明化に対する政治的関心そのものが失われてしまったようだ。最近の森友学園問題、加計学園問題、自衛隊の南スーダンへのPKO派遣の日報問題などを見ても、現政権はとても情報公開に積極的には思われない。しばしば指摘される「一票の格差」解消のための選挙制度改革も、司法は「違憲状態」という判断を下しているにもかかわらず、最低限の改革しか進まないのが現状だ。区割りの変更は、とくに現職議員たちにとっては次の選挙を戦うための死活問題だということに起因する。良かれ悪しかれ、政治は必ずしも「合理性」を好まないのだ。だが、合理的な施策の導入を実質的に決定するのは現在の政治である。

 ナッジ的アプローチも同様で、合理的で、費用便益の観点で効果が見込めるがゆえに、政治的理由で導入が見送られる可能性は否定できない。「政策のための科学」や日本版オープンガバメントの動向を見ていると、なおさらだ。環境省は日本版ナッジユニットの実証実験に着手した(「平成二九年度低炭素型の行動変容を促す情報発信(ナッジ)による家庭等の自発的対策推進事業」)。ただし環境省に設置されるとなると、その対象とできる範囲は相当制限されるのではないかという懸念も生じてくる。その動向も気になるところである。

 ただし、これらの課題は何も日本に限った問題ではない。現に、オバマ政権後のアメリカに目を向けてみても、オバマ‒ サンスティーンの路線から急旋回を見せている。トランプ政権に入ってから、理性と合理性を志向する政治は、情報公開や透明性の問題を含めて鳴りを潜めているようにも見える。

 すでに本書でも多くの例が提示されるように、ナッジ的アプローチは、政府、政策の合理化を強力に推し進める可能性を秘めている。ただし政治のインサイダーやステークホルダーがそれらを好まない場合に、社会はどのようにその導入を促進できるのかといった、古くて新しい問題にも直面している。また、一度デフォルトルールが設定されてしまうと他の選択肢が認知しにくくなるという課題もある。このとき、ナッジ的アプローチがもたらす便益が為政者や導入者ではなく、適切に社会、生活者を向いたものになっているかどうか、またその効果をどのように検証、監督するのかといった疑問も生じてくる。日本のように、政治監視についての意識が乏しい社会ではなおさらだ。

 しかし、このように関連した学術的、社会的論点が次々に惹起することをもってしても、サンスティーンの本書における議論が論争的かつ創造的なものであることは疑いえない。アカデミズムのみならず、政策担当者、一般読者含めて示唆に富む論点を多く含んでいる。邦訳刊行をきっかけに、サンスティーンの議論が広く人口に膾炙し、政策への実装可能性や、法学、社会科学的な知見等、活発な議論が行われることを期待したい。


キャス・サンスティーン『シンプルな政府―“規制”をいかにデザインするか』2017年11月刊行