[ 連載 ]

マンガこそ読書だ!!

第14回『史群アル仙のメンタルチップス~不安障害とADHDの歩き方~』(史群アル仙・秋田書店)

2017/11/1

 

 

 本作は、サブタイトルに「不安障害とADHDの歩き方」とあるように、史群アル仙、というユニークなペンネーム(「しむれ あるせん」と読むそう)のまだ20代の若い著者が、ADHDをはじめメンタル面での不調を抱えながらも奮闘してきたこれまでの体験を描いた一冊である。

 著者は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)という発達障害で、頭も体もおちつかない(多動性)・思ったことをすぐ口に出してしまう(衝動性)、ミスが多く片づけが苦手(不注意)といったさまざまな症状で、日常生活に支障をきたしてきた、と語る(さらに、不安を育てるのが得意で、不安が不安を呼ぶ悪循環に入りやすいようだ)。

 だが実は、さまざまな症状がADHDのせいだ、と判明したのはつい最近。それまでは紆余曲折を経たが、実はADHDである、ということが判明したことで有効な対処法がわかり、試行錯誤しながら前向きにやっていけるようになるまでが描かれている。

 

 一読して驚いたのは、圧倒的な読みやすさと、描かれた体験の壮絶さのギャップである。

 ご自身のメンタル面での不調を中心に描いているので、実際には混乱の極みとも言える状態だったと思うのだが、マンガとしてはかなりするすると読めるように描かれている。いわば、「混沌とした内面を整然と描いている」ことに大変驚いたのである。

 この読みやすさは、ご本人が切実な思いで自己分析を繰り返してきた成果でもあるだろう。また、表現としては、ご本人が「昭和の絵柄」と言うデフォルメの効いたほのぼのとした絵柄と、かなりかっちりとしたオーソドックスなコマ割りで描かれていることが、内容と読者に適度な距離を作ってくれることからも、もたらされているように思う。

 

 自分のコントロールが難しい彼女(女性である)は小学生時代はなんとかなったものの、「自分でやる」ことが増えた中学では学校生活についていけず、日々が苦痛でたまらなくなり、ズル休みするようになる。そして学校以外に一生懸命になれる場所を前向きに探すことにして、高校へは進学しないことを自分で決める。

 とにかく著者の「自立したい!」「働きたい!」という基本的な意欲の高さには圧倒されるが、そんなやる気とは裏腹に、正体不明の生きづらさ(のちにADHDと判明する)や、メンタルのさまざまな不調に、相談したメンタルクリニックでの誤診にもとづくと思われる処方が重なり、彼女が働いて暮らしていくことを困難にしてしまうのだ。

 だが、何度かのたいへんな低迷期がありながらも、そのたびにアート制作やマンガを描くことが、彼女にとっての希望の光となり、泥沼から這い上がるようにして状況を変えていく大きな原動力になっていくのだ。特に、P.A.D.というアートイベントを主宰している菩須彦(ボス)氏と出会い、イベントや絵画教室に参加することが、彼女の大きな支えとなっていく。

 そんな彼女の姿は、人はただ「生きるために、生きる」のは難しく、なにかの「希望」が必要なのだ、ということを痛烈に教えてくれる。そして、好きなこと、没頭できること、というのは、綺麗ごとや単なる贅沢品じゃなくて、生きるうえでの必須のものなのだ、ということをすさまじい迫力と共に感じさせてくれ、胸をつかれる。

 

 10代の頃から自立を目指して悪戦苦闘してきた著者の「一人で立ちたい」という気持ちは本当に大事な素晴らしいものだと思う。でも、本作でご本人も繰り返し語っているように、人は、一人では生きられない。ADHDという「生きづらさ」を抱えていれば、なおさらだろう。

 すべてに行き詰まり、「もう全部終わりたい」気持ちで精神病棟に入院することに決めたとき、「恩師」と呼ぶボス氏に入院を告げると

 「旅行のつもりで行ってこい」「ちょっと休んで帰ってこい」

と言われた著者は、その思いがけない「帰ってこい」の言葉に心を動かされ、「1人で生きてくのは無理だ…」と初めて気づく。そして、こう考えるのだ。

 「何とか支えてくれる人を見つけて迷惑かけて…」

 「そして…感謝して恩返ししていく…」

 「それが私の人生なんじゃないのかな」(p.91~92)

 「なるべく迷惑をかけないように」ではなくて、「迷惑かけて…」「感謝して恩返ししていく」。彼女に限らず、突き詰めれば、人間関係というのはそういうものなのではないか。さらりと描かれた場面だが、「迷惑をかけたくないのにかけてしまう自分」を著者が受け入れ、「できるだけ上手に迷惑をかけよう」と決心したように、私には感じられた。

 そもそも(いきなり話が大きくなって恐縮だが)、人に迷惑をかけたくない、という気持ちは非常に大事だけれど、行きすぎてしまうと、自分に対して「人がかけてくる迷惑」に対する過剰な不寛容につながりかねず、その連鎖は結果としてギスギスした息苦しい社会の有りようにつながってしまうように思うのだ。

 人と関わり合う、ということは、ある意味「迷惑をかけあうことなのだ」と心得て「上手に迷惑をかけあう」方法を探すことが、適度な寛容さをもちつつ人が気持ちよく生きていく上では必要なのではないだろうか。

 

 それにしても、迷走の果てに出会った病院でていねいな検査を重ねた結果、ADHDだと診断され、症状について教えてもらい、彼女がそうだったのか!と思い至るシーンは、不思議と感動的だ。

 ここが感動的なのは、本人が的確に表現されているように「自分につきまとっていた生きづらさの正体が…やっと姿を現した」からだろう。「工夫すれば大丈夫ですよ」という主治医の言葉は、闇雲にガンバってはうまくいかず、周囲も自分も傷つけ困惑してきた著者に、有効な対処法、つまり「こうすれば生きやすくなるかも、という積み重ねた知見」の存在を示してくれているのだ。

 

 だがもちろん、診断は免罪符にはならない。

 相変わらずミスを繰り返し職場の上司に叱られる史群氏だが、あるとき自分を叱責する上司が「困っている悲しそうな顔」であることに気づき、自分だけではなく、相手も困っていたことに思いいたる。そこで困っていたことの「正体」がわかったのだから工夫しようと、色んなADHDの本を読み、自分のミスや弱点をノートに書いて対策を考えるのだ。その最終ステップとして、職場の人に自分のことをカミングアウトするのだが、ここで大事なポイントがある、と著者は言う。

 それは、自分の欠陥を受け入れてもらおうとするのではなく、お互いに工夫して『一緒に「仕事」をするための私の「情報」』を相手に渡すのだ……と認識することだというのだ(著者は「謝罪しつつ伝えた」と言うが、これは相手に、通常より「一手間」かけてもらうことへの心理的配慮だろう)。いわば、社会人としての自分の(努力では直せない)少しやっかいな「癖」を、自分で編み出した「自分の取扱説明書」とともに相手に渡して、「仕事」という共通目的のために、日々トリセツを更新していくようなイメージだろうか。

 この「自分を客観的に見て、解決策を探る」冷静な視点は、たとえADHDではない人であっても、人とやっていく上で、とても参考になる部分だなと感じた。自分を支えてくれる相手には、他人はもちろん、自分自身も含まれる、と著者は言うが、自分との付き合い方に苦闘を重ねてきた著者の言葉には重みがある。自分の困った部分もいい部分も客観的に把握し、対処法を考え、ときに寛容にときに厳しく(これも大事だ)つきあっていく必要があるのだなあ……と改めて思った。

 

 本書の最終2話で、ボスのアドバイスを参考に1ページマンガを描き、なにげなくツイッターにアップすると、リツイートが止まらず、鳴り止まないスマホのRT(リツイート)通知音に、自分の知らないたくさんの誰かがマンガを見てくれていることに涙するシーンは、自宅に居ながらにして読者を獲得し、いわば世界に受け入れられていく様子が可視化される、という現代ならではの、ドラマティックで感動的なシーンだ。

 

 生きづらさを抱えた若者の壮絶な体験記である本書は、興味深い読み物であると同時に「自分自身を含めた人との付き合い方」に関するヒントがたくさん詰まっているように感じるのだ。